二日ほど男あるじが顔をみせなかったが、今朝はいつものようにわが庵にやってきた。どこやらに出かけていたらしい。それを尋ねると話が長くなるので知らん顔をし、朝の散歩のために足を伸ばしたり背中をそらしたりして催促すると、男あるじは、「なんだなんだ、散歩の催促か。おまえも年相応に気が短くなってきたようだな。もっとも、これは気が短いせいか、あるいはせっかちなせいかはわからないがな」とぶつくさとつぶやきだした。わが輩は、これにつきあうと朝の散歩がいつになるか分からないので、お愛想笑いのかわりに尻尾を半分程度挙げゆっくりと振った。男あるじはリードを散歩用に換えて、ようやく歩き出した。そして、
4年ぶりに中学校の同窓会に出かけてきた。同窓会に出るのも何かと物入りだが、なつかしい友垣の顔でも見ばやと思ってな。今年で皆、古希を迎えるのを記念してのもので、卒業して56年目になる。わが人生、半世紀以上にわたってはるばると歩んできたものだと実感したぞ」と歩きながら話し出した。いつもはだんまりで、そそくさとわが輩を引っ張るのに、今朝はゆっくりと踏みしめるように歩いている。わが輩はせっかちなので、リードを引っ張りたくなるが、今朝は男あるじの歩調にあわせてゆっくりと歩むことにした。そしたら、なんと濁声でなにやら唸りだした。よく聞いてみると漢詩のようだ。
「年年歳歳 花は相似たり 歳歳年年 人は同じからず 言を寄す 全盛の紅顔子 應に憐れむべし 半死の白頭翁 此の翁の白頭 真に憐むべし これ昔 紅顔の美少年」
  わが輩は、歩みを止めて男あるじの顔をいぶかしげにこっそりと探ったところ、
「これはだな7世紀の中頃の唐の詩人劉希夷(りゅうきい)の『白頭を悲しむ翁に代わる』という詩の一節だ。かっての紅顔の美少年も年月を経ると頭の髪の毛は真っ白となり、昔の面影はなく、それを悲しむ心情を翁に変わって詠んでいる。花は毎年同じように咲くが、人は毎年同じではなく物故者もあり、まことに人の世は無常だと言っている」と男あるじはつぶやいた。そして、
「わがクラスは男女あわせて45名だったが、すでに7人もの物故者が出ていることを同窓会の席上で知った。15%にも昇る。誰もが古来希なるという古希を迎えられるわけではない。歳々年々人同じからずを実感した」と述べたので、わが輩は、
「なるほど、そういうことだったんですか。それはショックというか、悲しくもあり、無情でもある心持ちなんでしょう」と眼で同情を示した。
  かくいうわが輩も、生まれて15年、人間の歳に換算すると90の齢になるので、人ごとではないなと感じたのだ。我が身も明日はどうなるか知れない。顔こそまだ童顔を維持し、散歩で出会うおばさんたちは、「かわいい子ね、足には白いソックスをはいているしね。とても15年も生きているようには見えないわ、せいぜい7年くらいかしら」と言って下さるが、こう暑くなると散歩も楽ではなく息がゼイゼイするときもある。寄る年波には勝てない。男あるじは、
「まさに、かつての紅顔の美少年の黒髪は白髪に、あるいは禿頭に、紅顔の美少女の顔は細かな皺のある面相に変じていたな。それでも、これを嘆くのではなく、皆これを受け入れ、残された人生を惑いながらも有意義に送ろうとしているからりっぱだ。歳々年々人同じからずだが、年々歳々人存命の喜びを知る、となれれば良いな」とつぶやき終えた。
  わが輩も、、日々生きてあることに感謝しているし、最後はぴんぴんころりを願っているので、男あるじのこのような感慨には深く共感した。

「なつかしく やがて寂しき 同期会」 敬鬼

徒然随想

-古希