近頃、男あるじは自分の古い時代の写真を整理しているようだ。なんでも、ネガフィルムをスキャナーとか言う器械にかけてデジタル資料化しているらしい。こうすれば、父と母、祖母、自分や兄弟、友人、恋人、飼育していた犬や猫などの昔日の面影をパソコン上で見ることができるのだという。男あるじは、どうやら、それにはまってしまったらしい。それはそうだろうな。すでに記憶の忘却の彼方に押しやっていたものが、再現されてくるのだから、感慨は一塩だろう。男あるじのこんな心境をわが輩が思いやっていると、案の定、腰をさすりながら、庭に出てきた。一服するつもりらしい。
「記憶というものは当てにならないものだな。もの心ついた幼い頃の記憶ならまだしも、大学時代の記憶も忘却の彼方にあって、写真を見てはじめて、そういえば、こんなことをしていたなと思い出す始末だ。記憶には、遠い記憶の中でも鮮やかに覚えているものと、写真を見てようやく思い出すものとあるようだ。人間は、自分の人生の中で、重要なものとどうでもよいものとを選り分けて記憶しているらしい」と、ぶつぶつとつぶやいた。そして、続けて、
「自分の人生のなかで生じた出来事の記憶は、エピソード記憶と言い、とくに自分が関わった事柄の記憶は自伝的記憶というのだぞ。もちろん、記憶しているものは、自己の体験の記憶ばかりではなく、言葉の意味についての記憶や生活全般についての手続や方法についての記憶もある。記憶喪失した人のこともよく聞くだろう。多くの場合、ここで失われるものはエピソード記憶なのだな。つまり、自分が誰で、どこで生まれたか、家族は誰で、どのような仕事をし、どこに住んでいたかを思い出せないのだ。でも、言葉をしゃべることはできるし、算数もできる。箸の持ち方も忘れてはいない。つまり、記憶喪失では、その人の生活史に関する記憶が思い出せない」と講釈を始めた。
 わが輩は、これは不思議なことだなと感じた。記憶喪失は精神的ショックでも起きるという。ということは、自分のことを何もかも嫌になり、自分を消したくなったときに記憶喪失が起きると言うことか。男あるじは、
「そういうことだな。記憶喪失は、一種の自己防衛として働く。これ以上自分を保っていると自分が壊れてしまうので、それを防ぐ心の働きといえる」と説明した。
 わが輩は、ますます、人間の心の働きは複雑で怪奇だなと思った。わが輩イヌたちは、その日の、いや、その時の数分前くらいの記憶しかもたないことにしている。こうしていれば、その時に体験した嫌なことも記憶されないので、後から思い出し、悔し涙に暮れるなんてことはない。
 この家の男あるじと女あるじは、時にはすさまじいけんかをする。たいてい、女あるじが、結婚してからこれまでに悔しく思ったことを、あらいざらいぶちまけ、ブーたれる、いや男あるじの非を追及する。こん時は、わが輩は、一宿一飯の義理から、女あるじに味方し、できるだけ、その怒りを収まるように鼻面を近づけてクィーンクィーンと甘える。こうすると、次第に、さしもの怒りも和らぐ。これもみな、過去のことを記憶しているから厄介なことになる。とくに、良いことは忘れ、嫌なことはよく記憶されているから始末におえない。やれやれだ。やっぱり、良いことも悪いことも綺麗さっぱり忘却してしまうに限るようだ。忘却とは忘れ去ることなり。『君の名は』なんて、何回も何回も問い続けるに限るようだ。味わい深いことばだな。

「昔日の 面影浮かびて 秋深し」敬鬼

徒然随想

     −古写真に思う