男あるじの徒然草読破もようやく最終段に到達したようだ。今朝も、徒然草の文庫本を片手にわが輩が朝寝を楽しむ縁の下の庵にやってきて、なにやらぶつぶつとつぶやいている。
「なして兼好法師は、こんな幼き日の逸話を最終段にもってきて結びに代えたのだろうか。おまえにわかるかな。いや分かるはずはないだろうな。つまりだ、最終段である二四三段にはこうある。『八つになりし年、父に問ひていはく、仏は如何なる物にか候ふらむといふ。父がいはく、仏は人のなりたるなりと。また問ふ、人はなんとして仏になり候やらむと。父また、仏の教へによりてなるなりと答ふ。また問ふ、教へ候ひける仏をば、なにかを教へ候ひけると。また答ふ、それもまた、さきの仏の教へによりてなり給ふなりと。また問ふ、その教へはじめ候ひける第一の仏は、如何なる仏にか候ひけるといふ時、父、空よりやふりけむ。土よりやわきけむといひて笑う。問ひつめられてえこたへずなり侍りつと、諸人に語りて興じき』。兼好法師は、一体、何を伝えたかったのだろうか」と男あるじは自問自答した。
 わが輩も、男あるじから、再三再四、徒然草については聞かされてきたので、この作者の人柄や思想はなんとなくわかっている気がする。まあ、一口に言うと、鎌倉時代の高等遊民といったところか。こんなことを眼で男あるじに伝えると、「ふむ、なかなか鋭いな。高等遊民か。こんな死語ともなった言葉をよく知っているな。明治の末ころから昭和の初めに流行ったことばで、いまでいえば、暮らしに困らないフリーターといったところかな。つまりだ、大学教育を受け卒業しながらも経済的に不自由が無いため、会社員や公務員、教員など生産的な仕事に就かずに、趣味や学問など自分の興味のあるものにしか興味を示さない人種を言う。とくに夏目漱石の小説の主人公の生き方がそれに当たると言われたようだ」と解説した。
  わが輩は、我が身をふり返って、わが輩も高等遊民ならぬ高等遊犬ではないかと考えた。男あるじの高等遊民の定義によれば、大学卒、非生産的活動、経済的余裕、趣味や学問など興味あるものに専心となるが、わが輩は大学卒という学歴を除けば、日々なる活動は朝寝と昼寝、夕方の散歩、当てがい扶持、匂いの探索なので、まさに食いっぱぐれはないし、意に染まないことはしないし、自由気ままで、言い換えれば日々是悠々ともいえる。わが輩こそ高等遊犬だ、と男あるじをみやると、頭に一発食らわされた。そして、
「何をかいわんやだ、高等遊犬とはあきれる。おまえはただの低能怠惰犬じゃないか」とまた一発食らわされそうなので、縁の下に避難した。男あるじは、
「なんでこんな話になったのか。そうそう、兼好法師の話をしていたのだったな。この法師は、権勢や名誉を捨て、隠棲し、仏道に帰依し、晩年を思索と仏道修行で生を全うしたようだ。ただ、隠棲と入っても、世捨人ではなく、政治や世事にも関心があり、上流階級ともつきあいを欠かせず、そこで仕入れた当時のゴッシプなどもそつなく書き留め、それに教訓さへ垂れている。とくに人と人との関係には意を配り、人を見下したり、人におもねたり、人に取り入ったりすることをあさまし、心うしとして退けていることがわかる。当時としては、スマートに生きようと努めたのだな。仏に帰依し、金や名誉から距離をおき、日々精進することで心を浄化していったに違いないな。最終段では、幼児期の父との問答をエピソードとして紹介し、当時を懐かしむと共に幼い頃から仏に対する関心があったことを強調したかったのだと思う」と結んだ。

「小春日や 日々是好日 犬寝入る」 敬鬼

徒然随想

-高等遊民と高等遊犬