- トヨさんの詩 『くじけないで

徒然随想

 9月に入ったが、秋雨前線が停滞しカラリと晴れる日が少ないので、家の中のいつものお気に入りの場所でうとうととする。ここは西向きの窓があり、この家の中ではもっとも良い風が吹き込むお気に入りの場所だ。女あるじも吾輩の横にある自分のベッドでなにやら熱心に読んでいるようだ。ときどき声に出しているのを聞くと、短い詩文のようだ。「ねえ 不幸だなんて 溜息をつかないで 陽射しやそよ風は えこひいきしない 夢は平等にみられるのよ 私 辛いことが あったけれど 生きていてよかった あなたもくじめずに」と声に出していた。
 吾輩は、詩文というよりは誰かに向かってのやさしい会話のように聞こえた。女あるじは、
「これは 現在100歳になる柴田トヨさんという女性が綴ったものなのよ。100歳だよ、100歳。なんとみずみずしい感性をもっていることかしら。ほんとに驚かされるわ。トヨさんの詩は、どれも誰かにあるいは自分にやさしく語りかけるように、ことばがしなやかに綴られていく。たとえば『さびしくなった時 戸の隙間から 入る陽射しを 手にすくって 何度も顔に あててみるの そのぬくもりは 母のぬくもり・・・・』というふうに詠まれるのよ。日常生活での感性が豊かなのよ。寂しさを手にすくいとって陽射しで暖めるなんて思いつかないわね。しかもそれが遠い母の思い出を呼び起こすのだわ。来年は70歳だけれども、こんな感性をもっていられたらこれからの人生も心豊かに送れるような気がするわ」とつぶやくともなく声に出した。
 そこへ男あるじがやってきて、
「よく降る雨だな。なになにトヨさんの詩を読んでいるのかね。うんうん、心を打つ詩が多いね。詩というと、なにか大上段に構えて人生や恋、死などを高らかに詠むものという先入観がある。たとえば、『僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る ああ、自然よ 父よ 僕を一人立ちさせた広大な父よ・・・・・・』のようにね。これは高村光太郎の詩で教科書にも掲載されているほどに有名な詩だね。もちろんこれは若者に自立を促す詩として優れたものだ。トヨさんの詩は、これとは違い、心のひだにそっと入り込み、さりがなく人の生きる意味や価値、そして寂しさを癒し、愛おしさを教え、励ましてくれる」と女あるじに話しかけた。女あるじも、
「トヨさんの詩は、日常生活の中で心に映ることをすなおに言葉に表している感じよね。なにものにもとらわれずに自在にことばが紡がれて口をついて出るんじゃないかしら。これも辛い体験、悲しい体験、いやな体験が100歳を経るまでに浄化され、いわば仏の境地に到達しているようにみえるわ。そうよ、トヨさんは仏の心を持つようになったんだわ。『体はやせ細って いるけれども 目は 人の心を 見ぬけるし 耳は風の囁きが よく聞こえる』と詠む。心身共に達者なのがよくわかるわよね」と続けた。
 男あるじも、
「トヨさんは明治44年生まれと言うことだから、わたしの母親と生まれが同年になる。大正、昭和の戦争に明け暮れた激動をくぐり抜け、戦後の困難な時代を息抜き、そして到達した平安のなかで、いまは一人暮らしをしているというよ。こんなふうに心穏やかに、しかも感性豊かな老いを迎えるようにわれわれも見習わなければな」と話し終えた。
 吾輩は、こんなりっぱな人が市井の中にはおられるのだなと感心した。それに較べれば、吾輩のあるじたちの心貧しきことは目を覆いたくなる。なんとかして目だたがりたがり、なんとかして他のものをやりこめようとする。いやはや何おか言わんやだ。

コスモスや風にゆらされ頬なでり」 敬鬼