- トヨさんの詩 『くじけないで2-

 お彼岸も間近になり、めっきりと秋らしくなってきた。そういえば、空を飛ぶのはアゲハチョウから赤とんぼに代わっている。吾輩は、いつもの縁の下の庵から上目遣いで空を仰ぐと、赤とんぼが数匹輪を描いて飛び、そのうちに干し物の竿に止まって羽を休めた。しばらくすると、12匹と青空に飛び上がりしばらく飛び回ると、また竿で羽を休めるのを飽かず眺めている中にいつしかまどろんでしまった。ふと、物音で目を覚ますと男あるじがとんぼを捕まえるべく捕虫網をもって近寄っていた。吾輩もそっと見ていると、羽を休めていたとんぼは危険を察知し、あっというまに飛び去った。良い歳をしてとんぼ捕りとはこれいかにと吾輩は感じた。何でも手中にしないと気が済まないのはこの男あるじの性分なのだろう。野にあるものは野においてこそ美しいものなのに、古希を迎えてもそれがわからないとみえる。
 男あるじは、とんぼ捕りに失敗し、バツの悪い顔をしながら吾輩の思いを察し、
「なになにそっと野におけレンゲ草ってか。クッ、余計なことだ」と吾輩の頭をコツンと叩いた。吾輩は憤然としてワンワーンと吠えてやった。吾輩の泣き声を聞きつけた女あるじがけっそうかえて家の中から飛び出してきて、
「いま、クウちゃんの泣き声がしたわ。あなた! 頭でも叩いたのでしょう。クウちゃんに手を挙げたり脚でけったりしたら承知しないから」といって男あるじの尻を蹴っ飛ばした。これには吾輩も驚いて、フィーンフィーンと女あるじをなだめるための泣き声を出した。女あるじは、軽く吾輩をハグすると、キッと男あるじを睨んでまた台所仕事にもどっていった。きっとガスの火をつけたままだったのだろう。男あるじは、ことなきをえたのか吾輩を見下ろして、
「ふー、恐ろし。どうなることかとおもったぞ、おまえがおおげさに泣くからだ。それにしてもだ、『そっと野におけレンゲ草』か。この句も一理あるな。もともとは、『手に取るなやはり野に置け蓮華草』からとられた格言だ。江戸中期の播磨の俳人、滝野瓢水が、遊女を身うけしようとした友人をいさめた句とされているぞ。つまりだな、蓮華草は野に咲くから美しいのであって、それを摘んでしまっては何の風情もないものとなってしまうということだ。とんぼは生け垣や竿に止まって羽を休めているから風情がある。これを捕まえて虫かごに入れたのでは暴れてすぐに弱ってしまう。まあ、おまえの言うとおりだ。しかしだ、蝉が木に止まっていると捕らえてみたくなる。とんぼもしかりだ。ショウリョウバッタが草むらで跳ねると追いかけたくなる。少年時代への回帰本能か、あるいはノスタルジアのなせるわざだな」としおらしく弁明した。
 吾輩は、男あるじも悪気があって昆虫を捕まえるのではないことはわかっていた。きっと、男あるじも自戒するように、昆虫捕りに夢中だった子ども時代への郷愁がなせるものなのだろう。人間も、犬も同じくこの世を生きていて、同じ空気と水をシェアしているのだから、野において自由にさせておいてこそ輝くというものだ。
 男あるじは、
100歳の詩人柴田トヨさんの詩に『・・・・私 ほんとうは と一行書いて 涙があふれた 何処かでこおろぎが鳴いている 泣く人遊んであげない コロコロ鳴いている こおろぎコロスケ明日もおいでね・・・・』。コオロギの鳴き声に慰められ、力を与えられ、そして心が晴れていくんだね」と結んだ。
 秋の夕べなのか、いやにしんみりとしてきた。そういえば今年は秋風の吹くのが早いようだ。

「赤とんぼ運動会の子らと舞う」 敬鬼

徒然随想