春なのか、この家の男あるじと女あるじが旅行に出かけ、ようやくご帰還遊ばした。なんでも九州は熊本、鹿児島、宮崎に行ってきたらしい。この間の朝と夕のわが輩の散歩は、娘あるじが勤めた。まあ、羽を伸ばすことができた4日間だったな。あの口うるさい男あるじの戯言を聞かないで済んだのだから。  そこへ、男あるじがやってきた。きっと、土産話のつもりなのだろうか、わが輩を見つめるとしゃべり出した。やれやれ、久しぶりなので長話になりそうだな。
「さっしがいいじゃないか。4日間も留守にしたので寂しかっただろうな。どれどれ、頭と背中を撫でてやろう」とわが輩にさわりだした。これも我慢だ、なにせ、居候だから。
「熊本城を知っているか。日本にはお城がたくさん残っているが、そのなかでも、大きさ、堅固さ、そして重要な歴史に登場している点では、5指に入る城だぞ。お城は、豊臣秀吉の家臣で戦場では勇猛であり、戦上手だった加藤清正によって築かれた。この城は、なんといっても堅固な石垣にある。そうだ、写真に撮ってきたので見せてやろう」
 男あるじは、あたふたと自分の書斎に戻り、またあたふたと戻ってきた。わが輩には、お城の石垣などどうでもよいのだ。まあ、ショッベンでもひっかけるにちょどよいものだといいのだが、でも、写真に写った石垣は、居丈高でなにやら人も犬も寄せ付けないような代物のようだ。
「どうだ、すごいだろう、今から420年前に築かれたものだぞ。熊本城の石垣は、近江国の石工集団、穴太衆よって築かれた。その特色は、写真でもわかるように、地面付近は勾配がゆるく上に行くにしたがって勾配がきつく積み上げてある点にある。石垣の下の方は30度程度で登りやすいが、頂上付近はほぼ垂直に近い絶壁となっている。これは、石垣を登ることを困難にいているので、武者返しと呼ばれているそうだ。事実、御一新後の西南戦争では、籠城した政府軍を西郷軍は最後まで破ることができなかった。守る政府軍は4000人、攻める西郷軍は14000人だったと言われる。でも旧士族を中心とした西郷軍の攻撃に耐え、ついに守り通すことができた。この戦いでは武者返しが大いに役立ち、熊本城を甘く見ていた西郷軍は、誰一人として城内に侵入することができなかったというぞ」
 わが輩は、こんな野蛮な話にはとんと興味がない。ましてや、百年以上も前の戦などどうでもよいのだ。でも、男あるじにはそうではないらしい。まさに血湧き肉躍る物語なのだろう。きっと、少年時代の読み物でも思い出したのではないかな。「神州天馬峡」とか「敵中横断三千里」はたまた「山岳党奇談」なんてものもあった由。そういえば、西南戦争の分岐点となった田原坂の戦いでは、「雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂 右手に血刀左手に手綱、馬上豊かな美少年 春は桜秋ならもみじ、夢も田原の草枕 田原坂」と後に詠われた。田原坂は熊本城の北方にある地名で鹿児島本線の駅がある。
「そうだ、この歌詞に詠われたように、ここでは抜刀しての斬り合いが両軍で行われ、多くの人の血が流された。西南戦争全体では両軍併せて14千人が戦死した。最後の内戦といってよい激戦だった」と男あるじは締めくくった。

「桜期は 戦の怒声 城垣に」 敬鬼

徒然随想

-熊本城-