わが輩は、午後、あまりの酷暑でわが庵を出て家の玄関で午睡を楽しんでいたら、いきなり、外へと追んだされた。なにごとかと周囲を見回したら、なんとこの家のたった一人の孫が遊びに来たのだった。わが輩も小さい子にはわが輩の同類であるイヌの仔ばかりでなく、人間の児にも関心がある。人間も含めて赤ちゃんというものはどこもかしこも小さく丸っこいので可愛い。この家の男あるじも、女あるじも、そして今日は娘あるじも、総出で歓迎と言ったところらしい。おかげで、わが輩は外に追い出されたというわけだ。わが輩もこれではまるで邪魔者扱いなので、玄関のとをカリカリと引っ掻いていじわるをしたが、家の中では大騒ぎをしているらしく、通じない。あまりに馬鹿馬鹿しいので、午睡の続きを楽しむことにし、聞くともなく家の中の気配をうかがうと、女あるじの興奮気味な声が筒抜けに、
「まあ、てっちゃん、ハイハイができるのね。てっちゃんのはまるでバタフライみたいだね。両手を同時に動かして、まるで匍匐前進しているみたい」ときた。匍匐前進なんて、これはかっての陸軍の軍隊用語だ。こんな死語を声に出すなんて、女あるじも戦中時代の名残が強いのかもしれないな。これでは、孫もおちおちパフォーマンスができないな。何を言われるかしれたものじゃない。
  娘あるじも珍しくしゃしゃり出て、てっちゃんを抱っこしたらしい。これも、興奮気味に、「お姉さんだよ。おばさんではないからね」と念押ししている。きっと、若さを印象づけようといているのだろう。もっとも、10月齢では、何も記憶に残らないだろうが、無意識下にでも記憶させようとしているのか。 そこへ、男あるじも、一句でもひねるのか、あれやこれやことばをひねり出そうとしているようだ。そして、外に出てきてわが輩の顔をみて、
「孫を題材にした名句というものは知られていないのだぞ。孫を手放しで礼賛しても俳句にならないし、誰も『いいね』と鑑賞してくれないからだな。でも、子を詠った名句は多いから不思議だな。たとえば、一茶は『寝せつけし子のせんたくや夏の月』と詠み、昼間に遊んで汚した子の着物を寝ている間に洗濯する親の子への情愛をこまやかにとらえている。一茶にはまた『明月を釘の穴から見る子かな』なんてユーモラスな句もある。草田男には『万緑の中や吾子の歯生え初むる』がある。木々の葉が生い茂る中、自分の子の歯も生え始めた詠い、万物とともに自分の愛しい子の自然な成長力に眼を瞠はり感動して言う様子がよくわかる。名句だな。あるいは、鷹羽狩行の『天瓜粉しんじつ吾子は無一物』という句も、おしめを替えるときの幼子のなにもかもさらけだした姿を詠っていておもしろい。ところが、孫を詠み込んだ俳句というのはなかなかみつからない。古来、俳句では、愛らしい動物や昆虫などが読まれている。蛙、雀の子、馬、蝉、蝶、鶏、鶯、などなど。それなのに、孫はどうして題材としてとりあげられないのだろうか。江戸や明治は短命だったから、孫が生まれるまでは生きられないといった事情もあるかもしれない。さらに、俳諧は風趣を重んじるので、孫を題材としてしみじみとした趣を表現するのは難しいのかもしれない。孫の可愛らしさ、孫への情愛をそこはかとなく詠うのは、それなりの情景描写が必要となる語句がいる。雪、月、紫陽花、菜の花、蛙、蝉などなどは、それだけで俳句の風趣を的確にイメージさせてくれるが、孫ということばから趣ある俳句の世界が形作りにくいということもあるかもしれない」と長口舌をした。そして、わが輩がそれに眼で応えようとしたら、そそくさと孫の元へと帰って行った。これでは孫を題とした名句は望めそうもないな。

「孫りきみ はじける笑い 夏の午後」 敬鬼

 

徒然随想

-孫と遊ぶ