徒然随想

- 孫とおせちとことば-

 マニラにいる孫が息子夫婦に連れられて帰郷し、元旦の夕方、遊びに来た。おかげで吾輩は縁の下の庵から2階の一間に閉じ込められた。孫にちょっかいをだして怖がらせたり、おびえさせたりしないようにとの配慮だという。吾輩はおおいに憤懣やるかたない。2歳の孫をすこし手荒かも知れないが、歓迎してやろうと手ぐすね引いていたのにがっかりだ。仕方がないので、ふて寝をはじめたが、階下ではにぎやかに孫を囲んで食事がはじまったらしい。 女あるじが、いくぶん甲高い声で、
「てっちゃん、大きくなったね。いろいろなことに興味を示すよい子に育っているわ。お豆をあげようかね」としゃべった。お豆とはおせち料理の黒豆のことらしい。そしたら、かわいらしい声で、
「すみません、お豆とってください」と言っているのが聞こえ、すかざず、女あるじと娘あるじが、
「まあ、びっくりだわ。ちゃんとお話ができるのだね。てっちゃんは天才だ」と叫んだようだ。
 吾輩はうつらうつらしながらも、「何が天才だ。欲しいものを欲しがっただけのことではないか。まったく、好々婆、好々叔母もいいところだ。孫や甥っ子を目の当たりにすると、こうも甘ちゃんになるのか」と嘆息した。
 これまで、黙していたらしい男あるじも、
「たいしたものだな。てっちゃんは2語文がしゃべれるのだな。目的語と動詞、それに丁寧語までつけてある。2歳でここまでしゃべれるとはたいしたものだ」とこれも手放しの誉め様だ。そして続けて、
「幼な子は毎日毎日、ことばを覚えていくものだ。ゼロ歳児の段階では、『アーアー』、『マーマー』のような喃語だけだが、1歳になると一語文をいうようになる。『ワンワン』とか、『ブーブー』『ママ』とかだな。2歳を過ぎると、二語文がいえるようになる。『ママ チョウダイ』、『ワンワン イタネ』あるいは『パパ イナイネ』となる。つまりだ、名詞と動詞を使える。でもまだ、助詞はつかえない。『パパハ イナイネ』といえるようになるのは3歳になってからだ」と講釈しだした。
 吾輩は、ことばというものはしゃべればなくても聞き取ることも大事なのではと思案した。というのも、吾輩はしゃべるのは、おねだり、威嚇、寂しさ、意味のない遠吠えなど4種類程度を使い分けているだけだが、聞き取りはけっこうできると自負しているし、男あるじの顔色や態度など言語でないものをよむのは得意と言っても良い。男あるじも、付け加える必要があると感じたのか、
「ことばには分かることばと使えることばとがあるのは知っているだろう。大人でもことばの意味は分かるが、正しく使えないものがあるのと同じだ。聞いて分かる言葉は、乳幼児の場合、使える言葉の約10倍はあるそうだ。親の話すことばは使える言葉より多く、その指示にも従うことができるのは、これによるわけだ。子どもは、日常生活のなかで親、保母、じじとばば、テレビの音声を通してことばを無意識に溜め込んでいるといえる。3歳になると、『いつ』『どうして』『だれ』『どんな』など疑問詞を使えるようになるぞ。こうなれば子ども同士、あるいは大人と会話できるようにもなる」と結んだ。
 吾輩は、階下での会話を聞き取りがら、あと1年もすると、この子は吾輩をからかったり、いびったり、指示したりするようになるのかと待ち遠しく感じながら寝入ってしまった。

 「孫来たりおせち料理に指かざす」 敬鬼