吾輩が秋の穏やかな陽射しを受けてまどろんでいたら、男あるじが朝刊を抱えてでてきて、「驚いたな、あのパキスタンの少女にノーベル平和賞がおくられるそうだぞ。17歳の少女にだ。びっくりだな」と大声でしゃべり出した。
 マララといえば、たしか昨年、パキスタンのアルカイダによって学校からの帰りのバスのなかで頭部を銃撃され、九死に一生を得た勇敢な少女だったことを吾輩は思いだした。何でも女性にも教育を受ける権利があると至極まっとうなことを主張したことが銃撃の理由だった。吾輩は、たとえ意見や思想が異なっても無抵抗な少女を銃撃するなんて、それだけで野蛮で非人間的な輩だと、当時、憤慨したものだった。   男あるじも吾輩の顔つきから吾が思いを察したと見えて、
「この少女のすごさは、暴力に対して知性で立ち向かおうとしていることだ。彼女は銃撃後、招待された国連での演説で『1人の子ども、1人の教師、1冊の本、そして1本のペン、それで世界を変えられます。教育こそがただ一つの解決策です。エデュケーション・ファースト(教育を第一に)』とその主張を簡潔に述べ、世界中からの共感を得たことはよく知られている。日本では教育を受ける権利は尊重され、たとえ親でもそれを侵害することはゆるされない。でも、彼女が生まれ育ったパキスタンの北部山岳地帯のスワート地区(マラカンド県)はそうではない。ここは反政府勢力パキスタン・タリバーンが09年まで実効支配した。この勢力は女性の教育・就労権を認めず、この間、200以上の女子学校を爆破したというぞ。欧米流の女子教育はイスラムの教えに背くという理由からだ。だからといって学校を破壊し、通学する生徒を殺すとは人間のすることとは思えない。クウタロ-もそう思うだろう」と吾輩にお鉢を回してきた。
 吾輩は、大きく頭を上下させて賛同の意を示した。それにしても、17歳の少女、日本で言えば高校生にノーベル賞か。ノルウェイの委員会は思い切った判断をしたものだ。マララにも重荷になってしまうのではないだろうか、と男あるじに眼で問いかけると、
「そうだな。それを危惧する意見もある。パキスタンの多くの人々は今回の受賞を喜んでいるが、一方『パキスタン国内でも、欧米はマララを利用して欧米の人権思想を押しつけようとしている』との見方も新聞には紹介されていたな。でも、受賞後の記者会見でマララは、『タリバンは、女というだけの理由で学校に行くことを許さなかった。私には医者になるという夢があった。学校に行けず、なりたい仕事にも就けないと知った時、私は声を上げることを決めた。・・・・。世界の子供たちは自身の権利のため立ち上がるべきだ。ノーベル賞は私一人でなく、声なき子供たちに与えられた』と訴えたそうだぞ。ノーベル賞は、研究や社会活動で功成り名を遂げた人に与えられてきた。でも、今回のマララへの受賞は、これからの彼女の活動を期待して与えられている。その受賞理由では、『マララ・ユスフザイ氏は未成年ながらすでに少女への教育の権利のために闘い続けており、子どもと若者たちに見本を示すことで、彼らが自らの状況を改善することにも貢献してきた。ユスフザイ氏は最も危険な環境で活動してきた。しかし彼女は勇敢な闘いを通じて少女たちが教育を受ける権利を求める代表的なスポークスパーソンとなった』と述べている」
 吾輩は、命を張って自分の信ずるものを目指して戦うマララを熱烈に応援したいと男あるじを見やると、男あるじも大きく腕をあげてわが輩の思いに応えた。

「暴力に蟷螂の斧かペンを挙ぐ」 敬鬼

- マララにノーベル平和賞-

徒然随想