川筋の土手を散歩していると、男あるじが「赤い花が一面に咲きだしたな。この花をみるとまた秋がめぐり来たことを感じるな」とつぶやいた。わが輩には赤という色は見えないが、なにやら葉っぱのつかない茎の先端に造花のような花が咲いているようだ。男あるじは、「この花は曼珠沙華、あるいは彼岸花と呼ばれる。まあ、お彼岸過ぎに咲き出すのでこういうふうに名づけられたのだな。実は、この花は華奢な見かけによらず有毒植物なのだ。毒は花にあるのではなく、でん粉を含んだ鱗茎にある。鱗茎とはラッキョウのように厚い葉状のものが重なった球根をいう。ここに吐き気や下痢、中枢神経を麻痺させる有毒物質がある。この性質を利用して、ネズミ、モグラ、虫など田の畦や河川の土手を荒らすのを防ぐために植えられた。この花がかつては墓地に多いのも、土葬だった墓を動物が荒らさないように植えたといわれる。だから彼岸花は死人花とも呼ばれ、不吉な花とも見なされていた。これは球根で増える多年草なので、今でも畦、土手、墓によくみられるのはこういう由来があるからだ」とつぶやいた。
わが輩は、球根をほじくらないのでこれを食して死ぬことはないが、しかしくわばらくわばらだ。花も見かけによらず怖ろしい物があるのだな。男あるじは、所々立ち止まりながらこの花を写真に写していた。この間、わが輩もその花をしげしげと観察すると、まるで造花であるかのように、花の中心から円形に細い筋が立ち上がった特異な形をしていた。男あるじは、この花をカメラで撮影しながら、
「そういえば、むかしむかし長崎物語という歌謡曲の中で、この花が効果的に使われていたな。戦後しばらくの間、のど自慢でもよく歌われた。いまでは歌う人も、この歌を知っている人も少なくなった」と回顧しだした。
最近は、男あるじはやたらに昔のことをなつかしげに話すようになった。これも歳のせいか、あるいは余命が少なくなってきたせいか。まあ、わが輩も年寄りなので我慢して聞いてやらずばなるまい。
「たしか一番は『赤い花なら 曼珠沙華 阿蘭陀屋敷に 雨が降る 濡れて泣いてる じゃがたらお春 未練な出船の あゝ鐘が鳴る ララ鐘が鳴る』」と濁声で歩きながら歌い出したのでわが輩はそっとまわりを見回した。さいわい、夕方で土手道だったので誰もいないので安心した。それにしても、不思議な歌詞だなとわが輩は感じたので、それとなく男あるじに上目遣いに尋ねると、
「そうだな、これは『じゃがたらお春』という混血女性の薄幸な人生を歌にしている。なんでも時代は江戸時代のはじめ、鎖国政策が厳しくなり出した頃のことだ。イタリア人の父と日本人の母の間に生まれたお春は、15歳で肉親と引き離され、じゃがたら、いまのジャカルタに追放となる。長崎では曼珠沙華の花に囲まれたお屋敷で幸せに暮らしていたが、鎖国令によって出国を強いられた。ジャカルタでは、妾人となり遊女ともなり、幸せ薄い生涯を過ごし、故国である日本に帰ることを願いながらかなえられず死んだそうだ。」 なるほど、そんな物語が伝えられていたのか。どうりで哀調のある節回しだな。戦後の日本人も故国に帰ることを夢みながら、異国で戦死したり、病死したりしていたので、この歌を歌い、また聞いて身につまされる人も多かったに違いない。曼珠沙華とは仏教の花のことを言うらしい。これを見る者はおのずから悪業を離れるという天界の白い花だそうだ。
「来し方を 振りかえ見るか 曼珠沙華」 敬鬼