最近男あるじは、何ごとをつぶやくのかぶつぶつと唱えながら、わが庵にやってくることが多い。男あるじも寄る年波にかてず、ついには惚けてきたのだろうと放っておいたが、そのぶつぶつと唱えるものが何かが判明した。万葉集の気に入った歌を暗記していたのだ。日本語らしいことはわかったが、まさか、今から千四百年も前の言葉とはついぞ思いも付かないことだった。そこで、夕方の散歩に出かける前に男あるじに尋ねてみると、「うんうん、これは万葉集の歌のひとつだな。『高倉の御笠の山に鳴く鳥の止めば継がるる恋もするかも』。これは、高倉の御笠山に鳴く鳥が泣き止んだかと思うとすぐまた泣き出すようにすぐまた燃え上がる恋いを貴女にしていると山部赤人が詠んだ。これにも歌われているように、万葉集には男女間や夫婦間の恋や愛を詠んだものがけっこう多いのだな。これらは相聞歌として分類されている。万葉人は多情多感な人々だったらしいぞ」と答えた。 わが輩はさらに、万葉集はいつごろ誰によって作られたのかと尋ねると、
「ものの本に寄ればだな、7世紀後半から8世紀後半、つまり奈良時代後半から平安遷都までに編まれたようだな。ここには、天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が登場し、彼らが詠んだ歌を4500首以上も集めている。今のような形に編纂されたのは759年以後で大伴家持の手になると推定されている。全部で20巻にもなる和歌集ということだ。8世紀前後に上は天皇から下は農民までが詠んだこのような詩歌集は、世界のどこにも存在しない」と解説した。
 わが輩は続けて、和歌とはそもそもどうしてうまれたのでしょうかと問うと、
「一説によると、素戔嗚尊(スサノオノミコト)が『やくもたつ いづもやへがき つまごみに やへがきつくる そのやへがきを』と詠んだのが始まりという。これは、八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに八重垣作るその八重垣を、となり、その意味は、美しい雲に守られた出雲の国の家 妻のために作った家 素晴らしい家、ということと解釈される。これは古事記に載っている。ここには和歌の形式、五七五七七と句を連ねて三十一字の構成がある。このようなものが基本となり、広く上流階級に素養として伝えられ、天皇を讃える場合、天皇や皇族を悼む場合、男女間の恋愛感情、あるいは自然に対する憧憬描写として詠まれたのだろう」と男あるじは話を続けた。
  確かに、この伝統は今の宮中にも受け継がれ、祭事の際には和歌が披露されるし、正月には歌会始として全国から応募された和歌が吟詠されている。わが輩は、和歌、俳句などまったく解せないが、しかし言葉を紡ぐ心の作業をうらやましく思う。わが輩イヌ族には、言葉をもたないので、どのように鳴き方、吠え方を変えても限界があり、怒り、恐れの二つの感情しか伝えられないのは残念だ。
 男あるじは、
「和歌を全国から集めて編成するのはいまでも大変な作業であるが、奈良時代には紙、筆や硯も普及していない。紙は610年高句麗からもたらされたと言われるので、使えたとしても貴族階級だけであっただろう。誰がいつどのような状況で詠じた和歌かを記録し、100 年近くも保存してはじめて万葉集は成立する。しかもこれは公の手になるものではなく、あくまでも私的な作業として行われたのだぞ。これに費やした費用や労力は計り知れない。大伴家持(718年頃~785年)は奈良時代の貴族で歌人だった。大納言・大伴旅人の子として出生し、律令制下で高級官吏となり、従三位・中納言まで進んだ。三十六歌仙の一人でもある。万葉集には長歌・短歌など合計473首が収められ、このことから家持が編纂に携わったと考えられているのだ。もしそうだとすると、大伴家持という貴族は日本の文化の礎を築いたわけだ」と結んだ。

「風鈴や 風に吹かれて 風雅かな」 敬鬼

徒然随想

-万葉集