徒然随想

-万葉集 2

  秋の夜長の季節となった。わが輩も、読書の秋としゃれこみたいものだが、あいにくわが輩の世界には文字というものがなく、お互いの意思の疎通は匂いに頼っている。この匂いというヤツはしばらくはそこに留まるが、しだいに拡散し希薄になってしまうので過去を記録する媒体としては不便だ。もっともわが輩達イヌ族は、過去や未来には関心が無く、今をのみ生きる動物なので、今の状態が把握できればそれでよい。「いつやるんでしょうか。今でしょ」というギャクだか、流行言葉だかがあるそうだが、わが輩はとっくに今という時間しかもっていない。縁の下でこんなことをつらつら思ったのは、めずらしく男あるじが、読書に精を出しているらしいからだ。夜も、けっこう遅くまで、といってもたかだか10時ころまでなのだが、男あるじの書斎に明かりがともされているので知ることができる。きっと、ベッドで「半沢直樹」が出てくる小説でも読みふけっているのだろう。なんせ、流行に流されやすい御仁だから。こんな風にして夜は更けていき、朝がやってきた。眼を開けてみると、そこに男あるじが立っていた。なにやら文庫本のようなものを手に持っている。そして、「この本が何かわかるか。万葉集だ。全二十巻もあり、なんと4500もの歌が集められている。秋の夜長を有意義に過ごそうと念じて、少しずつ読み始めたが、まあ正直言って小説のようにはなかなか読み進められない。内容は天皇を讃えたもの、当時の都を讃歌したもの、花鳥風月に思いを託したもの、旅先での風景を詠んだもの、そしてめだって多いのは、相聞歌といわれる恋の歌だな。当時の万葉人、といっても上流階級の貴人や貴婦人は、妻が恋しいとか、ちょっと見初めた女人に会いたいとか、まあ、あれやこれや手を変え品を変えて詠んでいるという感じだな。たとえば、『今さらに妹に逢はめやと思へかも我が胸いぶせくあるらむ』。これは大伴家持が山口女王に送った歌で、いまさらあなたに逢えるとは思えないけれどもしかしどうにも私の胸はうっとしく晴れませんと、わが思いを素直に吐露している。これにたいして山口女王は、『物思ふと人に見えじとなまじひに常に思へりありぞかねつる』と返している。あなたを思っていると人に気づかれないようにむりやり平静を装っていますがそんなことはできませんと、これも相手の思いに答えて己の恋心を白状している。」と男あるじは語り出した。
  わが輩は、男あるじが男女のあいだに通い合う恋心の歌を読み上げ始めたのでびっくりし、おもわず吠えてしまった。男あるじもこれに気づいたと見えて、照れくさそうに、これはたとえばこんな歌も詠まれているという話だと言い訳した。わが輩も、それはそうだな、古希を迎えんとするこの男あるじに、いまさら惚れたはれたもないからと思い返した。男あるじは、気を取り直して、
「恋の歌ばかりではないぞ、こんな歌も載っている。『白玉は人に知らえず知らずともよし知らずとも我れし知れらば知らずともよし』。これは元興寺のある僧侶の歌ったものと説明書きにある。大意は、真珠(才能)はその価値を他人に知られなくてもかまわない、自分だけがわかっていればそれでよいという。この僧侶は自らその才が人に認められないのを嘆き、自分の才を自分が自覚していればそれでよいのだと悟ろうとしたのだろう。」と語り終えた。
  男あるじが紹介した僧侶の和歌は、徒然草を著した兼好法師に一脈通じるようにわが輩には思えた。この僧侶は平安時代の初めの人、兼好法師は鎌倉時代の人、300年の時が離れているが、いつの時代にもこのように自分で自分を肯定し、自ら納得しようとした人がいたようだ。わが輩は、はじめから、この僧侶のごとく生きているので、これが当たり前だと思っている。男あるじ、そして女あるじがわが輩をどのように思おうと、それは人様のことで、わが輩の心には何の影響もおよぼさないの、気楽なものだ。我のみ知れば知られずとも良し。

「コオロギや すすきの原で 逢い引きか」 敬鬼