3月下旬、男あるじ夫妻はマニラに旅立った。わが輩には、盆と正月がいちどにやってきたようで、まさにホリデーシーズンだ。頃は春爛漫、気候も良くなり、男あるじに邪魔されることなく、朝寝、昼寝、そして夜寝を満喫できて、満足だ。
 でも、出れば帰る時も来る。それがなんと一週間でやってきた。無事、昨晩ご帰還遊ばしたのだ。これでわが輩の春のゴールデンウイークも終わりを告げた。
 男あるじは、さっそく庭にお出ましになった。きっと、土産話でもするきだろう。わが輩は、
「そんたらことは聞きたくない」と意思表示のために縁の下にもぐり込んだが、男あるじは意に介さずにわが輩を引っ張り出した。そして、
「マニラは、セントレアからおよそ3000kmの距離、飛行時間は3時間30分ほどで行ける近い所にある。フィリッピンは、なんと大小7107の島々からなる群島国家で、面積は約30km、これは日本の約80%にあたる。もっとも、島はほとんど無人島で、人が住む人2000ほどだという」と話し始めた。
 わが輩は、しかたなく耳を立てて拝聴の態をとったが、こんな地理情報にはとんと興味が涌かない。そこで、フィリッピンにはどんな人が住み、何語を話し、どんな生活をしているのかを眼で尋ねると。
「うんうん、それを今から話そうとしていたところだ。話には順序というものがあるだろう。」と大学での講義をしているようにぶつくさつぶやいた。まだ、大学教師の習性が抜けていないようだ。
「人口は約8500万人、首都圏マニラには約10%にあたる1600万人が集中している。民族構成は、ほとんどがマレー人で95%、あとは中国系が1.5%、そのほか3.5%という。話す言葉はフィリピン語(タガログ語)、でもほとんどの人は英語を不自由なく話せる。英語はもう一つの公用語となっていて、空港、道路、ホテルなどの案内は英語が主である。なんでも、英語を話す人口はアメリカ、イギリスについで世界第3位だそうだ。これは、もともとマレー人が住んでいたルソン島を16世紀にスペインが支配下に置き、長らくスペインが統治したが、その後、1898年の米西戦争によってマニラのスペイン艦隊がアメリカ艦隊に破れると、フィリピンはアメリカ領となった、という歴史的事情が関係している。宗教も、スペイン支配が長らく続いたために、国民の約83%がローマカトリックで、キリスト教だけで90%を超えている」と一息ついた。
 わが輩は、アメリカというのは自由の国を標榜し、イギリスから戦争まで起こして独立したのに、他国を占領し支配してきた歴史があるのだなとがっかりした。日本も占領されたが、これは日本が起こした戦争に負けたのだから仕方がないが、フィリッピンはその当時の大国間の領土拡張政策の犠牲になったわけだから、憤懣やるかたないことだろう。男あるじは、わがつぶやきを引き取り、
「その通りだが、実は日本もこれに深く関係した。日本が太平洋戦争に突入すると、アメリカ軍のいたフィリッピンを攻め、マッカーサー率いるアメリカ軍を追い落として、フィリッピンを占領したのだぞ。このとき、マッカーサーは”I shall return"、つまり『私は必ずや戻ってくるであろう』と発して、潜水艦でオーストラリアに逃れたという。もっとも、その後、アメリカ軍が盛り返し、その通りになった」と語った。
 わが輩は、マニラに旅した目的は何ですかと、はじめに聞くべき問いを発すると、「それはだな。孫の顔を見に行ったのだ。長男が会社からマニラに長期派遣されているので、一度遊びに来ないかと誘われてもいたのでな。フィリッピンでは、3月下旬は"holy week",つまり聖週間に当たり、一週間、官庁、会社、工場が休みになるので、それにあわせてのフィリッピン訪問というわけだ」と答えた。
 わが輩は、そういうことだったのかと納得した。どうやら、散歩の時間がきたようだ。今日の話がこれまでだが、これからしばらくは、マニラ旅行の話が終わらないと散歩に行けそうもない。

「孫の笑 マニラの夕陽に 弾けるか」 敬鬼

徒然随想

-マニラ紀行 1