「マニラに降り立つと、空気はむしむしし、日本の3月下旬から一足飛びに6月の気候になった感じだ。それでも、ここフィリッピンでは1年でもっとも良い季節なのだそうだ」と男あるじは、桜散らしの雨の中を、わが輩の縁の下の庵にサンダルをつっかけてやってきて、いきなり話し出した。どうやら、娘あるじは土産話など聞く耳を持たないようで話せず、しかたなくわが輩を相手とするしかないようだ。わが輩も、それでは拝聴しますかと行儀良くお座りをした。男あるじは、満足そうに、
「そうそう、空気を読むのがうまくなったじゃないか。イヌはそういうふうに従順だとかわいげがあるな。さて、マニラだが、わが長男は首都圏マニラのなかのマカティ市の高層マンションの39階に妻と1歳半年の子どもと住んでいる。そこまで迎えの車にのった。道路は思いのほか、車で込んでいた。ただ気がついたことは、交差点は信号で制御するのではなくロータリ方式になっていることだった。つまりロータリに車が入り、目的の筋で右折するわけだ。これは信号待ちがなく、効率的に車を流せる。ただ、車が過度にロータリに集中すると身動きができなくなってしまうようだ。混ではいたがそれでも40分ほどで高層マンションに到着した。わが夫婦は、ひとまず、そこに一泊した。マンションの広さは、一階が広いダイニングルーム、二階が寝室、トイレとバス、それに4畳半くらいの小部屋が付いていた。われわれは、その小部屋に布団をなかよく敷き並べて休むことになった。マニラまでは4時間程度のフライトではあったが、それでも疲れたのでしばしば休息を取り、それから孫の相手をしたのだった」と話した。
 わが輩は、ちゃちゃをいれる筋合いでもないので、黙って首を垂れてただ聞くのみだった。男あるじは、続けて、
39階からの眺めは素晴らしいものだぞ。遠くマニラ湾まで見通せるし、遠くに伸びる高速道路には多くの車が走っていた。ただ、靄が掛かったようになっているのは大気汚染のためと言うことだった。もちろん、北京のようなひどさではないが、楽観できる事態でもないようだ。日本も昭和30年代の東京、名古屋、四日市、大阪の大気汚染はひどいもので、夏はしばしば、大気汚染による光化学スモッグ警報が発令されたことを思い出した。孫がこれからもここで数年は過ごさなければならないので、その影響も危惧される。部屋では、常時、空気清浄機をつけはなしにしていた。水も、もちろん上下水道は備わっているが、水道水は涌かさないと飲めないし、涌かしても臭いがあっておいしくない。きっと、都市の浄化設備が十分ではないのだろう。テレビは英語放送ばかりだが、NHKプレミアムを見ることができ、ニュースも1時間遅れで放映されるので便利だった。孫もNHKの教育テレビで放映される子ども番組がお気に入りで、悔いるように見入っていた」ととりとめなく話した。 わが輩は、日本とフィリッピンとの関係は古いものがあると聞いたことがあるのを思い出した。戦国末期の呂宋 助左衛門は堺の貿易商人でルソンとの貿易で巨万の富を築いたと言われるし、戦国キリシタン大名の高山右近は秀吉のキリスト教弾圧のために大名の地位を投げ捨てここに亡命したともいう。まあ、なんといっても日本から距離的に近い位置にあるからだろう。わが輩も、一度は海外に渡航してみたいものだが、なんせ高所恐怖症だから飛行機に乗るなんてくわばらくわばら。

「ルソン島 あまたの盛衰 偲ばれる」 敬鬼

 

徒然随想

-マニラ紀行 2