春の嵐も夜中の中に遠ざかり、今朝は雲が多いものの晴れ間が広がってきている。わが庵のある庭は一面水浸しだが、太陽の熱と土の中への浸透でみるみると乾いていく。朝の散歩から帰ったわが輩は、幾分湿った庭に寝そべってたっぷりと土の感触を味わった。寒い間は土は硬く冷たくてとてもじかに寝そべる気は起きないが、これも春のなせる技であろうか、土が気持ちよいのだ。そこへ、女あるじも出てきてわが輩の朝食を準備するやら洗濯物を干すやらし始めた。そして女あるじは、「クウちゃん、マニラに行ってきたんだよ。そこでは孫のてっちゃんとも遊べたし、ボラカイとやらにも出かけられて楽しかったわ」と話し出した。
   わが輩も、「それはようござんしたね。こちとらもその間、娘あるじをそそのかしてわがまま一杯に過ごさせていただきました。ところで、おみやげはないんですか」と問うと、
「それがクウちゃん聞いてよ。おみやげを空港で買おうと思っていたんだけれども買えなかったのよ。いくつか誤算が生じたの。まず、フィリッピン航空の搭乗券窓口が混雑していて、ここで60分も待たされたわ。次に出国管理の窓口も混雑していて、しかも一緒に帰国する孫のビザの関係でここでも50分かかってしまったのよ。そして、搭乗口に急いでいたら、なんと私たちの名前がアナウンスされ、直ぐに搭乗するように促されてしまったのよ。乗り遅れたら次の便というわけには飛行機の場合できないので、やむなく買い物を断念したというわけ。2時間近くの余裕をもって空港に着いたのに残念だったわ」と女あるじは、空港の非効率を慷慨した。そこへ、話し声を聞きつけた男あるじも再度出てきて、「まったくだな。日本の空港では考えられないな。手順に書いてないことが起きると上司にお伺いを立てないと自分では判断できない典型だな。どのくらいの人がじりじりして待っていようとお構いなしという態だからな」と女あるじと同じようにまくしたてた。
  わが輩は空港なんてところのことは全く知らないが、きっと男あるじたちにも手抜かりがあったのではと、これまでのおっちょこちょいぶりから思った。まあ、しかしなんとか搭乗でき無事に日本にたどり着けたのでよかったではないですか、と女あるじに水を向けると、
「ほんとにほんとに、そのとおりだわ。異国ではいろいろなトラブルが起きるのは仕方がないことだわ。それより、孫のてっちゃんと5日間も過ごせて楽しかったわ。まだ一歳半だけれども、私たちジジとババの顔を覚えていて、懐に飛び込んでくるので可愛らしいことこの上ないわ。思わず、抱き上げてぎっくり腰のおまけまでついて往生したけれどもね。体重が12kgというから、ババには重たすぎるわね。ジジも右腰が張っていると訴えていたわ。孫に会いにフィリッピンまで出かけ、しかもボラカイなんていままで聞いたこともないリゾート地まで孫と一緒できて感激したわ」と感に堪えないように話した。これにつられて、男あるじも、
「まったくだ。息子がフィリッピンにいる間にもう一度訪問したいものだな。フィリッピンは、戦時、日本軍はバターン死の行進としてフィリッピン捕虜とアメリカ人捕虜を会わせて1万人ほども死なせているし、また占領時代には日本軍が圧政を敷いていたのに、いまは親日的で、みなフレンドリーに接してくれ、気持ちよかった。もっともこの友好性はほんものかどうかまではわからなかったが、露骨な敵視は無いといえる。きっと、高度な技術をもつ同じアジア人としての日本人への共感とあこがれがあるのではなかろうか。もっとも気前よくお金を使ってくれるからかも知れないが。マニラ市内を走る自家用車は日本車、とくにトヨタ車が多かったが、韓国車のヒュンダイもよく見かけた。電化製品や電子機器も、ソニーやパナソニックではなくサムソンが目立っていた。そういえば、空港では韓国人が多かったな。日本はここでも韓国や中国に後れをとっているようだな」と話し終えた。
  わが輩は、フィリッピンの政治、経済、国民感情はしらないが、「とにかく、てっちゃんに会えてよろしかったですね」と尻尾で示してやった。

「ふと見やる 椰子のかなたの 満ちし月」敬鬼

徒然随想

-マニラ紀行 6