黄金週間の到来だ。といっても、わが輩の日常には何も変わるところがない。でも、人間どもがなんとなく浮き浮きしていると、わが輩もそれにつられて浮かれたくなるから不思議だ。これも、目にさやかに映る木々の新緑のせいだろう。わが輩は色を知覚することはできないが、ものの明暗には鋭敏な視覚をもっている。梢の葉が淡く白っぽい明るさから濃い影の濃いものに変わってゆく様子はよく分かる。この季節には、一日ごとに葉の明るさが変わるのを見るのは楽しいものだ。もう1週間もするとそんな変化はなくなり、濃い明るさで落ち着く。4月下旬から5月上旬にかけての自然が演出する景色は一年中でもっとも目にさやかに映るな。こんなことを思いつきながらうつらうつらしていたら、そこにお出ましになった男あるじは、わが輩の顔をしげしげと見て、「そうか、目にさやかにうつるか。たいしたものだな。色覚がないイヌにとってもさやかに見えるのだな。さやかは清かとも明かとも表す。つまり物事が明瞭にしかも清々しく感じられるという意味だ。確かに、この季節は、大気が澄みかつ乾いているので、ものは明瞭に見えたり聞こえたりするし、空気も爽やかなことも加わって清々しく感じられるな」と話し出した。
  わが輩も、異論はないのですなおに首を縦に振って賛意を示したら、男あるじは気をよくしたのか、
「さやかという語は、古今集にある『秋来ぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる』がよく知られている。秋が来たとは目にははっきりと見ないが、人を驚かすような風の音を聞くとやっぱり秋になっているのだと感じるという思いを詠っている。平安時代初期の藤原敏行朝臣の和歌だな。ここでは視覚ではまだ夏なのに、聴覚は秋が来ていると教えていることを詠んでいる。まあ、視覚と聴覚の不一致を和歌に込めているので面白いと言えよう」と男あるじは解釈した。
  わが輩イヌ族は視覚は弱いが嗅覚は鋭い。そこで、「春来ぬと目にはさやかに見えねども草の息にぞおどろかれぬる、とでも言ってもよいな」と男あるじを見上げると、
「ふーん、まあそういうことだな。人間は視覚が優位な生き物なのだ。どうしても目に映る景色から四季を感じる。お前たちイヌ族は嗅覚から季節の変わりを知るというわけだ。どのような感覚器官を通して自分のおかれて環境の変化を知るかは、その生き物の感覚器官の特性によって違うというわけだ。視覚では遠くにある多くの情報をいちどきに知ることができるが、嗅覚では近くにある情報をしかも時間を追ってしか知ることができない限定された劣位にある感覚といえる。人間では退化しつつある感覚器官だな」と憎まれ口を叩いた。
  わが輩は、人間の傲慢さをこの男あるじの中に見る思いがした。男あるじは、この嗅覚で知り得る情報がどんなに大切なものかをわかっていないようだ。食べ物が腐っている、近くに異性のしかも発情した友達がいる、薬物など有害な物質が隠されているなどは、嗅覚によって知ることができる。わが輩の仲間はこの鋭敏な嗅覚を利用し、麻薬探知犬とか犯人追跡犬としてお役に立っているのをわが男あるじは知らないと見える。情けなし。
  男あるじは、わが輩の顔をじっと見ていたが、いつものように、勝ち目はないとばかりに家の中に戻っていった。ほんとに、今朝の春の匂いはさやかだな。


「目にさやか 薄刷毛雲に 飛びつばめ」

徒然随想

-目にさやか