今朝も、わが庵のある、その庭に朝顔が4輪、5輪と咲いている。わが輩が起き出す頃には花が開き、まるで微笑みかけているようだ。この朝顔の棚は、柄にもなく男あるじが20鉢ほどに種をまき、ネットを張ったものだ。毎朝、居間から朝顔を見、また涼しさを演出しようと考えたものらしい。わが輩には朝顔の形やその特有の模様は見ることができるが、色はみな同じに薄く青みがかってみえる。人間どもには、これが薄紫、薄紅色、赤色などに見えるようだ。このことは、すなおにいって人間がうらやましいし、われわれイヌから色の世界を奪った造物主がうらめしい。とはいうものの、わが輩たちイヌには花より鼻に効くもののほうが断然良い。とりわけ、あのかわいいメグちゃんの匂いならこの上ないが、箱入り娘らしくめったにお鼻にかからないのが残念だ。 こんなことを夢想しながら、暑くなるだろう今日の、しかしまだ涼やかさのある早朝の気を味わっているところに、男あるじが寝室から出てきた。おやおや、どうしたのだろうか。この熱帯夜で眠れなかったのだろうか、などと推しはかっていると、男あるじは、
「朝顔が咲いているな、まるでわたしに微笑みかけているようだ。朝顔の棚を造ったのは、このような風流、これは気取っているようで適切ではないな、そう、風趣を楽しむためだったからな。うまくいったようだ」とひとりでほくそ笑んでいる。続けて、
「かの鴨長明さんも、『春は藤波を見る。紫雲のごとくして、西方ににほう。夏はほととぎす(郭公)を聞く。語らうごとに、死出の山路をちぎる。秋はひぐらしの声、耳に満てり。うつせみのよをかなしむほど聞こゆ。冬は雪をあはれぶ。積もり消えるさま、罪障にたとうべし』と春夏秋冬の移りゆくいつもの景色を楽しんでいる。いや、ここにこそ、人生を送る上でかかせない風趣があるとみているのだ。もっとも、これにつづいて『もし、念仏もの憂く、読経まめならぬ時は、みずから休み、みずからおこたる。さまたぐる人もなく、また、恥づべき人もなし。ことさらに無言をせざれども、独りおれば、口業を修めつべし、必ず、禁戒を守るとしもなくとも、境界なければ、何につけてか破らん』と。その自由な、いや怠けたくば怠けられる心境を綴っている。まあ、現今のわたしにも通じるところがあるな。読経ならぬ3次元視研究の論文を毎日読むのがもの憂く、ベッドにひっくりかえって新聞を読んだり、音楽を聴いたり、はたまたテレビドラマの刑事物にうつつを抜かしても、誰も何もいわない。強いて言えば、われ自らわが心に対して、『こんなことでよろしいのか、残りの時間は多くはないのだ』、と叱咤激励する内からの声があるのみだな」とつぶやいた。
 わが輩は、男あるじの、こんな独り言を聞いて、なるほど、悩みは何もないように見えて、それなりに考えていることが男あるじにもあるのだ、と感じた。わが輩も当てがい扶持で暮らしには困らない。ちょっとした媚びを男あるじや女あるじに売れば良いだけだ。そうすれば、「クウちゃんにはほんとに癒されるわ、もしクウちゃんがいなかったら、我が家はみんなストレスからうつ病になっているわ」と女あるじに感謝される。わが輩のちょっとした演技でも人助けになっているのだから、大手を振って扶持を受けれるというわけだ。男あるじも、女あるじも年金暮らしだから、公的に扶持されているようなものだ。わが輩と境遇は変わりない。もっとも、誰にも媚びを売る必要がないので、鴨長明さんと同様に、物憂ければぐうたらぐうたらしていられるわけだ。そこで、おのずと自然の営みに眼が向き、朝顔にも感動する。これも日々是好日ということなのだろうか。

「朝顔に 今朝の怠惰の 気直さる」 敬鬼

 


徒然随想

-もし、もの憂く