そろそろ散歩の時間かなと待ちあぐねているのに、男あるじはちっとも庭に出てこない。ときどき催促のためにワーオーン、ワーオーンと吠えるがいっこうに家の中からはうんともすんとも返事がない。たいてい女あるじが顔を出すにどうしたのかしらと、吾輩はガラス戸越しに家の中を覗くが、光に反射して家の中の様子はわからない。仕方がないのでまた一寝入りと丸まっていたら、薄暗くなってようやく男あるじがお出ましになった。なにやら軽く興奮しているようだ。そこで、「また、女あるじと諍いを起こしたのですか、夫婦喧嘩は犬も食わないといいますでしょ。ろくな事にならないですよ」と眼で問いかけると、男あるじは、「なにをぬかすか。いまちょっと興奮しているのは、今し方までテレビで日本のテニスプレーヤーとして全米オープンで準優勝した錦織圭の奮闘をみていたからだ。楽天ジャパンオープンの決勝戦で錦織が勝利した瞬間に感動したわけだ。相手はカナダのテニスプレーヤーのラオニッチで、身長196cmからの時速220kmの弾丸サーブの持ち主だ。このサーブはコーナーに小気味よく決まるので、錦織はほとんど打ち返せない。いや触ることもできないノータッチエースとなる。ラオニッチはゆうゆうと自分のサービスゲームをキープしていく。片や錦織のサーブも190km前後あるのでゲームの先手をとれるので、数本のラリーの末にポイントをあげる。つまりだな、端から見ているとラオニッチは余裕を持って自分のゲームをキープするが、錦織は苦労してキープしているように見えるわけだ。錦織苦戦とみてハラハラしながらテレビ観戦をしていたわけだ」とまくしたてた。
 吾輩は、男あるじがたかがテニスの試合でこんなに興奮したのをみてすこし意外に感じた。というのも、この御仁はいつもしらけたところがある。自分の感情を面に出さない、いや出すのをみっともない、はしたないと感じているようだ。その点、吾輩はいたって素直に、怒るし、泣くし、吠える。感情を外に出さなければ誰も、どのイヌも吾輩の心の内をわかってはくれない。はしたないとかみっともないとか言っていては生きてはいけないのだ。その点、人間は自分を誤魔化し、他人をも偽っても生きてゆけるのだろう。これがまわりに波風を立てない方便なのかもしれないな、と吾輩がとつおいつ考えていると、男あるじは、
「人間は一所懸命になって、しかも勝利すると自然に感情がこみ上げてくるものらしいな。なんと、ここでポイントを取ると勝利するというラリーで相手がミスをし勝利が確定した瞬間、錦織はコートに大の字となり天井を見上げ、そして珍しいことに涙した。彼はめったに感情を外に出さないのにだ。きっと全身全霊で戦った後の緊張した感情が脱力したのだろうよ。まあ、観衆を感動させる瞬間だったな。どちらが勝利してもおかしくない互いに実力が拮抗した試合だった。かれらは23歳と24歳だから、これからも名勝負を演じるだろう。先が楽しみだ」と話し終えた。
 散歩に出かけたくてうずうずしていた吾輩としては、ただただ男あるじの話を、「そういうものですか」と拝聴した。「きっと、もらい泣きならぬ、もらい感激をしたのだ。人間も馬齢を重ねると、みずからほんとうに感激、感動することは少なくなってきているから、ドラマやスポーツでの出来事で代償として一喜一憂しているのだろう」と吾輩は夕闇の迫る中を散歩しながら、この男あるじの心情を思いやった。

「どんぐりや気が満ちたるか弾けたり」

- もらい感激-

徒然随想