このところめっきり朝晩が冷えるようになった。今年も秋たけなわといったところか。吾輩には寒いくらいがちょうど良いので体調は良い。朝寝も昼寝も気持ちよく目覚める。そろそろ夕方の冷気を感じたので散歩の時間かと背伸びをしていたら、そこへ男あるじがあらわれた。
「なになにもう散歩のための背伸びか。おまえにとっては夕方の散歩が一日での最高の楽しみだものな。ちゃんと顔に描いてあるぞ。さて毎日毎日おまえにつきあって散歩していると行くところがなくなるな。散歩にも少しは変化を付けなくては面白くないだろう。秋晴れだし、それでは里の秋探訪としゃれこむか」と男あるじはひとりで悦に入っている。吾輩は、あの角で匂いを探したり、この角でかわいこちゃんの足跡を見つけたりしながらゆったりと散歩できれば言うことないのだが、男あるじは匂いを嗅ぐ能力を持たないので目で見て麗しいところに行きたがるようだ。吾輩が住まいするところは、30分ほども足を伸ばせば日本の里の風景がまだまだ残されている。どうやら、男あるじはそれをカメラで撮影しようという魂胆らしい。
「なんだな、秋から何を連想するかといえば、まず銀杏、もみじ、桜、柿の紅葉だな。黄色の銀杏、紅色のもみじ、橙色の柿は目に鮮やかだ。これらは庭木として植えられているし、銀杏やもみじは街路樹にもなっている。もっとも街路樹は葉が色づく前に剪定されてしまうので残念だな。きっと落ち葉の始末が煩わしいからだろう」とぶつぶつ言いながら男あるじは歩き続けた。吾輩はこちらの木の根もと、あちらの隅に鼻を突っ込み、探索したところはおしっこをかけて男あるじについて歩いた。
「そういえば、枕草子に『秋は、夕暮。夕日のさして、山の端(は)いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛び急ぐさへあはれなり。まいて雁などの連ねたるがいと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はたいふべきにあらず』とある。清少納言の美的感覚では秋は夕暮れがもっとも趣があることになる。因みに春は曙、夏は夜、冬は朝がもっとも良い感じなんだそうだ。言われてみればそう感じるところもあるな。秋の夕陽はつるべ落とし。もう暗くなってきた。なんとなく家路を急ぎたくなるな。秋は寂しさをつのらせるので人恋しくさせるのだろう。早く帰って一風呂浴び、寄せ鍋でもみんなでつつきたくなる」とつばをごくりと飲み込んだ。「里の秋探訪はどうなったんでしょうか。せっかくカメラまで持参したのに」と吾輩がちゃちゃを入れると、
「そうだったな。さて何を撮影するか。見渡しても里の秋を連想させるものは近くにないな」ときょろきょろあたりを男あるじは見渡した。大きな公園のなかを歩いていたので、ドングリがたくさん落ちているのを目にして、さっそくそれを撮していた。吾輩も匂いを嗅いでみたが、なにも匂わなかった。ただ、茶色に焦げ茶が混じっていて、実も大きく傘もしっかりついていたりっぱな木の実に見えた。幼稚園の子ども喜びそうなので、男あるじはそのいくつかをポケットにしまいこんだ。そしてだみ声を張り上げて、
『どんぐりころころ ドンブリコ お池にはまって さあ大変 どじょうが出て来て 今日は 坊ちゃん一緒に 遊びましょう どんぐりころころ よろこんで しばらく一緒に 遊んだが やっぱりお山が 恋しいと 泣いてはどじょうを 困らせた』と歌いながら家路についた。吾輩は、人間は老境になると幼児還りをするんだなと男あるじの行動から確信するにいたった。

「どんぐりや子ども顔して拾いけり」 敬鬼

- 鍋の季節-

徒然随想