- 内発性の欲求
 毎週木曜日になると、男あるじと女あるじは揃って朝からお出かけだ。今日もラケットを抱えてうきうきとお出ましになった。車に乗る前に、わが庵で知らんふりしている吾輩に向かって女あるじは、
「クウちゃん、出かけるのでお留守番を頼むわね。今日は風もないし、お日様もご機嫌良く照っているし、テニス日和だわ。クウちゃんにもお昼寝日和だわね」とささやいて、車に乗り込んだ。男あるじは、吾輩の所にも寄らず、時間が惜しいとばかりにさっさと出かけていった。吾輩は、少なくとも午前中は天下太平に過ごせると大きくあくびをして、縁の下で丸くなった。寝入りばなを起こされたので直ぐには寝付かず、あれこれと思いやったが、2月にしては暖かい陽射しで身体が良い具合に温まりいつしか寝てしまった。
 どのくらいの時間が経ったのか、車が車庫に入る音がしたので薄目を開けてみると、男あるじがお帰り遊ばした。そして吾輩のもとにやってくると上機嫌に、
「心地よい汗をかいた。このところ木曜日は周期的に天気が崩れていたので3週間ぶりのテニスだったせいか、大勢の同好者が集まって楽しいひとときだったな。ここに集まる愛好者は皆リタイアした人たちで、趣味と健康維持のために集まってくるのだぞ」と話し出した。
 吾輩も走ったり、追いかけたり、ジャンプしたりするのは大好きだ。もっとも最近はジャンプをすればとたんに転げるようになってしまった。それでも持てる筋肉の力を解放するのは気持ちの良いものだ。人間どもがスポーツに親しむのも、持てる技能や力を一時の間、解放できるからだろう、と男あるじを見やると、
「うん、うん、その通りだよ。人間には運動機能を満足させたいという欲求が備わっている。心理学ではこれを内発性欲求とよんでいる。内発性というのは、外から報酬を得るのではなく、内なる機能を発揮させることで報酬が得られるという意味だな」と調子に乗って講義をし始めた。
 吾輩は、そういえば男あるじが心理学の話をするのは久しぶりだなとなつかしく感じた。退職直後はやたらと吾輩を相手に講義を始めたものだが、最近はあきらめたのか、あるいは心理学を忘れてしまったのか、とんと話題にしなくなっていた。男あるじは、続けて
「手の機能を働かせることも、目や耳を働かせて好奇心を満足させることも、はたまた皮膚への心地よい刺激をもとめることも、みな内発性の欲求に基づいている。子どもが親の肌のぬくもりを求め恋人が抱擁するのも、皮膚への心地良い刺激を求める接触への欲求によるのだよ。親子の絆を形成するベースとなる欲求はこの接触への内発的欲求によっていることが確かめられている」と解説した。
 吾輩は、そういえば、まだこの家にもらわれてくる前にわが兄弟たちと狭いケージのなかで一緒にされ、お互いにじゃれ合うのは心地よく、慰めともなったことを思い出した。あれが接触への欲求充足だったのかと男あるじを見やると、
「その通りだよ。よく覚えていたな。もちろんおまえは、出生直後に母イヌから引き離されてしまっているから母からのぬくもりをもらっていない。でもそれを補ったのは兄弟イヌからのぬくもりだったのだな。そのために、お前は情緒不安定にならずに、まあ正常に育ったというわけだ」と話し終えた。
 吾輩は、テニスの話から吾輩の情緒の問題に飛躍したのを訝しくおもいながら、内発性とか言う欲求の不思議な力に魅せられた。

「啓蟄の待たれん土の冷たさよ」 敬鬼

 

徒然随想