4月に入り桜が満開になったと思ったら、降ること降ること、もう5日も雨か曇りかはたまた雨模様の日が続いているので、さすがの吾輩も身体の節々が湿気で重たくなったような感じがしてならない。なんでも菜種梅雨とか、菜の花が咲く頃、3月下旬から4月上旬にかけてのすっきりしない天気が続くのをいうらしい。吾輩も雨の合間をぬって庭の吾が庵で過ごすのだが、周りが湿っぽいので心地悪いのを我慢しなければならない。それでも、家の中に閉じ込められてすることもなく悶々とするよりはまだましだ。 そこへ、男あるじと女あるじとがやってきた。女あるじは、これも雨の合間を縫ってすこしでも洗濯物を干そうという魂胆らしい。女あるじは、
「クウちゃん、雨模様の天気が続くのでつまらないでしょうね。せっかく咲いた公園の桜も、誰も見に訪れないのでふてくされて散りかけているわ。晴れ上がれば、近所の若いお母さんが乳飲み子を連れて花見に出てくるのに、これでは台無しだわね」と干し物を竿にかけながら愚痴った。紫木蓮をぼんやりと眺めていた男あるじも、
「見てみるよ、この紫木蓮の花も終わろうとしている。太陽がさせば日に映えて紫が美しく照り映えるのに、こんな曇天では何ともならないな。天気予報によれば、天気が回復するのは3日くらい後らしいぞ」と、これもぼやき口調でつぶやいた。
 吾輩は花には興味がわかない。人間が何故に食べ物ではない花に魅きつけられるのか吾輩にはとんと理解できない。確かに花は匂うが、だからといってガールフレンドのメグちゃんを連想させるわけではない。どちらかと言えば、花の匂いは強すぎて犬のおしっこから出る匂いを消してしまうので、吾輩は花は嫌いだ。
 ふと目をやると、曇天のくすんだ空のもと、なにやら言い争っている男あるじと女あるじとを見やった。
「夫婦が末永く仲睦まじくいるためには何が必要だと思うかね」と男あるじが女あるじにきいている。女あるじは、
「きまっているじゃない。それは愛だわ。相手を大事に思う心といってもいいね。自分よりは相手のことを第1に考えることだわ。もっとも、あんたには、そんな気はもう残ってはいないようだけれどもね」と応じた。すると、男あるじは、
「それはありきたりの、誰でも思いつく考えだな。でも、それでは夫婦二人の関係は長続きはしないね。お互いに意地を張り合って疲れちゃんじゃないかな」と続けた。
 女あるじは、
「それではいったいどんな関係が仲睦まじく続けられるというの。愛がない生活なんて、ただの同棲生活で、一緒に飯を食ったり、散歩したりしているだけではないの」と問いを投げかけた。男あるじは、
「吉野弘という詩人は、『祝婚歌』という詩のなかで、二人が睦まじくいるためにお互いに配慮しあうことがあるとうたっている。それは、愚かでいること、立派すぎないこと、完璧を目指さないこと、どちらかがふざけていること、正しいことを控えめにいうこと、だというんだね。夫婦だからこうすべきだとか、ああすべきだとかではなく、ちょっといい加減な態度がちょうどよいというわけだ。こんな関係ならばお互いに気心が知れていて心理的にゆったりと過ごせる。ゆったり、ゆったりが夫婦の間でも心地よいのだよ」と結んだ。女あるじも、これには異論がないようで、ゆったりと歩いて家の中に消えた。
 吾輩は、人間のような夫婦の間のことは何一つ分からないが、ただ吾が飼い主の夫婦を長年みていると、毎日を送ることに精一杯なせいか、物事を突き詰めて考えることはあっさいと放棄しているようだ。このいい加減さが良いのかもしれない。

「光浴び色目をつかう紫木蓮」 敬鬼

- 仲睦まじくいるために

徒然随想