徒然随想

 梅雨はあけてはいないようだが、朝から強い日差しが照っている。吾輩も縁の下の庵の風通りのよい日陰にはやばやと避難した。見上げると、夏雲がにょきにょきと湧いている。入道雲だ。まだ蝉は鳴き出さないが、大暑来たれる前の小暑も近づいた。 そこへ男あるじと女あるじがそろって庭に出てきて、男あるじは菜園の、女あるじ花壇の手入れをはじめた。この頃になると、胡瓜が毎朝収穫できるようになり、茄子もそこそこ食べ頃になっている。男あるじは鼻歌を歌いながら、草取りや枯れた葉っぱの除去に余念がない。鼻歌はなんと蛍というタイトルの小学校唱歌だ。
「『蛍のたるのやどは 川ばた柳 柳おぼろに 夕やみ寄せて 川のめだかが 夢見る頃は ほ ほ ほたるが 灯をともす』。なんと情緒いっぱいの歌詞じゃないか」と口ずさんでみせると、女あるじも、
「そうね、子供の頃はこの季節になると川縁に蛍が飛んでいたわね。夕日が落ちて涼風が川面を渡る頃になるとあちこちの草場で黄色の淡い光が点滅していたものだわ」と続けた。
 吾輩は、蛍なんて虫は見たことがないのでしっぽが光ると言われ、しげしげと吾が尻尾を眺めた。もし、吾輩たちイヌ族も光る尻尾を提灯のごとく高く掲げて夕方散歩したら、愉快だろう。きっと、多くのイヌたちがその光を求めて集まり、駆け回ったり吠えあったりしてみたいものだ。
「胡瓜や茄子はこんなにも実をつけているわ。垣根の際に植えた朝顔も私の背丈を超えてつるを伸ばし続けている。不思議な力を感じるわ」と女あるじが雑草を取りながら誰にともなくつぶやいた。あるじもそれに応えて、

「まったくだ。野菜や花の命は短いが、その間は精一杯に成長し実や花をつける。こいつらには夏は命を輝かせる季節だ。野菜たちにはこの夏空のもとで命を輝かせている。もっとも、こちとらには暑くてたまらないがね。でも、公園に遊びに来る子どもたちは炎天でも大声を上げて駆け回っているが、これも成長期にあるからだな」と自分の子ども時代を思い出すようなそぶりをした。
 女あるじは、茄子の花を指さして、
「それにしてもきれいな薄紫だわね。こんな色を水彩絵具で出すのは難しいわ。花も可憐で、野菜の花にしておくのはもったいないくらいだわ。切り取って花瓶にでもさせば趣があるのに。でも切ってしまえば茄子の実はならないので、残念だわ」と独りごちした。 「そういわれてみると、胡瓜の黄色な花、トマトの黄色な花も可憐だな。これらの花も受粉すればりっぱな実をつける。ことわざにも、親の意見と茄子の花は千に一つも仇はないというぞ。茄子ではひとつの花にはひとつの実がつくので無駄花はない。同じように、親の意見も無駄なものはないので仇やおろそかにしてはいけない。拝聴せよということだ。ところで、茄子は花ばかりでなく茄子の実の色も美しいぞ。俗に茄子紺色というくらいにつややかな紺だ。種田山頭火の句に『夕立が洗っていった茄子をもぐ』がある。水に濡れると色はいっそう鮮やかに見える。とくに、夕方は紫がきれいに見える眼のしくみがあるので、いっそう際立つ。このもいだ茄子を茹でたり、焼いたりして味噌か醤油をつけたら酒の肴にちょうどよいな」と男あるじは舌なめずりした。
 吾輩もつられて舌なめずりした。やれやれ十有余年もいっしょに暮らしていると、飼い主の癖がうつってしまうものらしい。

「夏空となすびを映す桶の水」

- なすび