徒然随想

      夏の風情

 夕方、公園の木立の間を散歩すると、あちこちから蝉がびっくりしたように飛び立った。どうやら、2週間程度遅れて羽化したんだろう。識者によれば、春先の気候が冷たかったために、蝉の成長が遅れていたらしい。男あるじは、蝉の鳴かない夏なんて、ホップのきかないビールみたいなものだと嘆いていたが、これでご満足であろう。と思うまでもなく、男あるじは歩きながらのたもうた。
 「なになに、ホップのないビールがどうしたのだ。そんなものは飲めるわけがないぞ。むかし、クリープのないコーヒーなんてというコマーシャルが流行ったことがあったが、あるべきものが欠けていたら、それは興ざめだな。琥珀色がないブランデー、赤くない赤ワイン、蝉の鳴かない夏、入道雲のない夏空、麦わら帽子が行き来しない海辺、ひまわりの咲いていない公園などなど、これらはみな、風情を欠いたものだ。犬を連れない散歩もこれに価するかも知れない」
  わが輩は、これにはびっくりした。犬を連れない散歩は興ざめするものなのかな。ということは、わが輩も風情の片棒を担っているということか。わが輩にとっては、男あるじがいない散歩なんて、長針のない短針なんてとは思わない。連れ立とうが一人だろうが、純粋に散歩を楽しめるからだ。公園には、わが輩が知らない仲間の痕跡に満ちている。それらを嗅ぐと、その匂いのあるじの性別、年齢、暮らしぶりまでだいたい想像がつくものだ。最近は、わが輩とは性を異にする仲間が増えたようだ。ひところは、オス仲間ばっかりだったが、どうやらメスの方が心性がやさしく、しかもお座敷犬にするので小さいくて扱いやすいものを求めているようだ。あれこれ思いやっていたら、男あるじは、講釈をたれだした。
  「あの有名な清少納言も、『すさまじきもの 昼ほゆる犬。春の網代。三四月の紅梅の衣。嬰兒のなくなりたる産屋。火おこさぬ火桶、すびつ。牛にくみたる牛飼。博士のうちつづきに女子うませたる。方違にゆきたるにあるじせぬ所。まして節分はすさまじ』と書いている。すさもじきものとは恐れ入ったが、確かに赤子をなくした産屋などはそれに価するな。昼ほゆる犬なんてのもあげられているぞ。おまえは、昼間に吠えることがあるが、心した方が良いな。もっとも夜なく犬は、もっと恐ろしげだがな」
  わが輩は、風情とか風物とか言われているものを否定しているわけではない。わが輩も、夏の風に音立てる風鈴、夏祭りに集う幼子の浴衣姿、捕虫網をもち麦わら帽子をかぶった少年などをみると、季節を実感できる。
  男あるじは、「そうか、おまえも風雅を感じるか。これは大切なことだ。今年の夏は今年限りだ。来年も夏が来るが、おまえにも夏が来るかはわからないのだぞ。季節も一期一会だな。一期一会というのは茶道からきたことばで、いま催されている茶会は、一生に一度だという思いをこめて、真剣に取り組むことが重要だと言う意味だな。季節は巡り来たるが、いまの季節は一生に一度の出会いであり、それきりだということだな。もののあわれといっても良い。趣があり、しかももの哀しいといったこころの動きといってもよいな」としみじみと話した。


   「蝉羽化し夏を賛歌と響かせり」  敬鬼