徒然随想

夏ノスタルジア

階でなにやらだみ声がきこえる。男あるじが歌っているようだ。
「我は海の子白浪の〜 騒ぐ磯部の松原に 煙たなびく苫屋こそ〜 我がなつかしき住家なれ」
  男あるじは、
「なんといっても夏は、青い空、白い雲、さざ波の立つ海、白い砂浜、潮風、磯には小さなカニ、ヒトデそして松原だな。夏は不思議に子どもの頃を思い出させるものだ。家族で出の海水浴で泳いだ後の氷水やアイスクリームはうまかったな。遠くに目をやれば水平線の彼方に浮かぶ漁船、夜になればイカ釣りの集魚灯の明かりなど目に浮かぶようだ」とうっとりしている。今朝はどうしたのかなとわが輩がいぶかると、男あるじは照れくさそうに、「年齢を重ねると、後いく回の夏を迎えることができるかとふと感傷的になったものだからな。そういうおまえも多分、迎えられる夏は5回程度だぞ」と気に掛かることを言う。
 たしかに、わが輩も馬齢ならぬ犬齢を重ねたので、命脈が残り少ないとは思っているが、このようにはっきりと指摘されると考え込んでしまうな。しかし、わが輩は、毎日、毎時、毎分、精一杯生きているので、自分の余生に思いをはせたことはないな。朝寝でも、昼寝でも、そして散歩でも邪念をいだかずに行動するので、心は平穏でいられる。でも、人間どもはそうはゆかないのだろうな。いつも邪念を抱えて暮らしているようだ。もっと有効な時間の使い方が、もっと楽しく日々が、そしてもっと良い生き方が送れるのではないだろうか、などと考え、実は毎日、毎時、毎分が愉しめてはいないようだ。
そこへ、女あるじが洗濯物を抱え、ハミングしながら出てくる。
「あした浜辺を さまよえば〜 昔のことぞ 忍(しの)ばるる〜 風の音よ 雲のさまよ 寄する波も 貝の色も〜」
 いったい、男あるじも、女あるじも今朝はどうゆう心境なのだろうか。わが輩がいぶかっていると、女あるじは、
「わたしも感じたわ、あと何回の夏だろうかしら。そしたら、自然にこんな歌が口をついてでてきたから不思議ね。ふだんは思い出しもしないものが、ふと出てきたという感じよね。こいうところは夏がはかない蝉と同じかも知れないわ」
 これには男あるじがびっくりしたような顔をした。きっと、
「感傷とかロマンとか、はたまたノスタルジアなんてものからはほど遠い心性の持ち主だと女あるじを見ていたのに、懐かしさを表に出すなんて驚きだ」、とね。
 でも、夏はなんといっても子どもの季節だな。麦わら帽子をかぶっての蝉取り、バッタ探し、小鮒釣り、海水浴、そして浴衣を着ての花火、夏祭り、団扇、氷水にアイスクリームなどなど楽しいことばかりだろうな。加賀の千代女も『蜻蛉釣り 今日は何処まで 行ったやら』と吟じているとおりだ。子どもにとっては夏は面白きことばかりだろうな。もちろん、わが輩も、花火は苦手だけれども、子供らの前や後をついて歩き飛びかかったり寝転んだりするのは大好きだな。
 これまで静かにしていた男あるじは、
「ノスタルジアは望郷あるいは追憶という意味だな。もはや戻れない故郷に対する思いが、子どものころの懐かしい思い出とともに心の痛みを伴って浮かんでくる心境を言うのだな。とくに、日本では八月は先祖を供養する仏教行事のお盆があるので、ノスタルジアが起きやすい。夏は、思い出の季節と言ってよい、とくにわれわれ老い先の長くない者にはな」

「一生の楽しき頃のソーダ水」 富安 風生