正月もたんたんと日にちが経っていく。わが輩には正月気分というものははなから無いが、この家のものには華やいだものが少しずつ元に戻っていくのにいくぶんかの未練はあるらしい。実際、遊びに来た孫も帰ってしまったし、仕事がはじまりご近所の雰囲気もいつもの日常が戻ってきたようだ。わが輩も朝の散歩が終わると、わが庵である縁の下での暮らし、そして、この家の男あるじがふらりと現れて毒にも薬にもならないことをしゃべるいつもの日課が戻ってきた。「正月気分もどうやら終わったな。おまえは盆も正月もない生活だから気楽だな。人間には、四季折々の行事というものがある。いつ、誰が決めたのかは知らないが、多分、農作業にかかわるもの、仏事にかかわるもの、そして宮中行事に起源をもつものなどから生まれたようだ」と男あるじは、わが縁の下のある庭に出てくるなりしゃべり出した。
  わが輩は、久しぶりの小春日和で気持ちよく午睡をむさぼっていたのに、それを妨げられ、不機嫌に鼻を鳴らした。男あるじは、耳さとくそれを聞いて、
「なになに、そんなに午睡が楽しいのか、このぐうたらめ」と悪態をついた。わが輩は、さっそく、それに抗議するべく一声吠えてやった。何もしないと、この男あるじはつけあがってますます居丈高になる悪い性分がある。わが輩がちょっと強く出ると、幾分かは怖じ気づくようでそれ以上、わが輩をいじめることはない。長年、男あるじとつき合っていると、適当にあしらうことも覚えるらしい。男あるじは、ちょっとへっぴり腰となり後ずさりしながら、口だけは達者に動かし、
「なんだ、その態度は。ご主人に向かって吠えるとは。しつけをし直さなければ」とぶつくさとつぶやいた。そして続けて、
「人間には退屈を嫌うという傾向がある。つまり、単調なことに飽き、つまらなくなったり、嫌になったりする。語源辞典によれば、退屈は仏教用語から派生した。仏教では苦難な修行の疲れ果て、気持ちが後退し気力が萎えてしまうことを指した。ここから、単調な生活に飽き、気力が後退したり時間をもてあましたりするようなこころの状況をいうことばになったのだ」と、ここでもひとくさり講釈をした。
  わが輩には退屈という心理状況は理解しにくいことのひとつだ。わが輩が生きていく上での信条は日々是好日である。つまり、積極的に何もしないことを最高の贅沢として享受し、毎日が単調でも心地よく過せるように努め、これが生き甲斐にもなる。しばしば、人間はわが生き方を見て、それでは退屈きわまりなしと言うが、わが輩には人間こそ退屈を回避するために逆に苦しんでいるのではないかと愚考した。男あるじは、わが輩のこんな思いを察したと見えて、
「なるほど、一理あるかもしれないな。退屈な人生とは逆の生き方を考えてみよう。それは、波瀾万丈の人生、ドラマティクな人生ということになる。歴史に現れる英雄はこんな生き方をした人だろうが、凡人がこのような生き方をすれば、きっと刺激が強すぎ、相当強靱な意志をもっていないと潰れてしまうだろう。人間は、退屈でもなく波瀾万丈でもない中庸な生き方がちょうど良いのだろう。年中行事は、季節季節に応じて行事や祭りを用意し、単調な生活に彩りを与える。これがいっときに間、退屈を紛らわせてくれ、明日への糧となる」と結んだ。
  やれやれ、結局はわが輩の生き方と同じ事じゃないか。ただ、年中行事とやらがあるかないかの違いで、それも時々は祭りと称して人間は馬鹿騒ぎをする。でもそれを除けば日々是好日という中庸な生き方を人間もしている。わが輩も真っ当な生き方を続けたいものだ。

「注連飾り いつのまにやら どんと焼き」敬鬼

徒然随想

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