このところ、男あるじは里心がついたようだ。どうも、秋が深まってくると、異郷にいて自分の生まれた故郷への思い、ノスタルジアが高まるようだ。まあ、一種の心の病ではないが、心のアンバランスとでも言って良い。わが輩たちイヌ族にも、このような心境はあるともいえる。というのも、幼児期、母イヌから乳をもらった、あの温もりのある体験を覚えているからだろうな。できれば、もう一度、あの甘くしかも安らぎもあるふところに戻れればなどと願う。しかし、無情にも、あの甘美な所から訳もわからぬまま引き離され、新しいあるじ達に引き取られて、これからこの者たちが新しい母イヌならぬご主君であり保護者だと強制される。いまのイヌたち共通の宿命とはいえ、哀しい限りだ。 こんなことを秋日和の日向で思う出すでもなく思い出していると、男あるじが日向ぼっこに出てきた。そして、きまって気持ちよく昼寝しているわが輩の傍らに腰を下ろして、
「そうか、お前にもノスタルジーがあるのか」と共感を示した。わが輩は、何も男あるじに同情しているのではない。たまたま、かって体験した十数年も前の甘美な思いを思い出しただけなのだ。
「その甘美な思い出は、刻印付けという行動によるものだ。インプリンティングともいわれる。つまり、誕生時、自分の傍らにいる自分より大きい生き物を母親として認知してしまう行動様式を言うのだな。普通は、近くにいる自分より大きい生き物は母親なので、母親を心にすり込ませてしまい、終生、忘れられない存在となる。誕生時に開眼し、歩行できる離巣性の動物、すなわち、ウマ、ヒツジ、ニワトリ、アヒルなどに顕著に出現する。これはオーストリアの行動学者コンラッド・ローレンツによって発見された。ローレンツは、動物の本能行動の研究が評価され、ノーベル医学生理学賞を受賞している」と、いつものように講釈しだした。そして続けて、
「イヌ族にも、刻印付けがあるかは明らかではない。しかも、イヌは生まれてまもなく、母イヌから引き離されてしまうので、引き取った新たな飼い主が刷り込み親となっているかも知れない。おまえの行動を見ていると、どうみても人間を親と認知するようにすり込まされたようだな。刷り込みによる親の認知があるかどうかは、刷り込み親がいなくなったときに不安行動が出現するかどうかでわかる。お前などは、われわれ飼い主がいなくなると、泣き喚き、あまつさえ下痢までしてしまう。どう考えても、われわれが刷り込み親になっているようだな」と話した。
 やれやれ、何と言うことだ。女あるじと娘あるじが刷り込み親なら、わが輩もいさぎよく認めるが、この男あるじまで、わが輩の心の親なんて、とうてい容認できない。わが輩の親なら、しかるべく尊敬に値する者であって欲しいのに、怠け者で自己中心的、あまつさえ自己顕示欲が強いのでは、こちらから願い下げた。でも、刻印付けの無情なところは、親としての資質に関係なく、近くに存在すると言うだけで、刷り込まされてしまうことだ。やれやれ。
 それにしても、ふるさとへのノスタルジーも刷り込み行動によるものだろうか。ふるさとへのノスタルジアは、あの唱歌にも『兎うさぎ追いし かの山 小鮒釣りし かの川』とあるように、人間へのものではなく、自然へのものだ。もっとも、『いかにいます 父母 つつが無しや友垣』とも詠っているので、親子関係や友人関係もノスタルジアの対象のようだ。人間は、幼い頃の身のまわりの自然や人間環境に刷り込まされ、終生、忘れられないものとなってしまうのだろうな。でも、このような刷り込み体験が不幸にしてなく、ノスタルジアするべきふるさとが無い人はどうなるのだろうか。根無し草か、はたまたコスモポリタンになるのだろうか。あるいは第二のふるさとを見いだすのだろうか。男あるじの講釈を片方の耳へと聞き流しながら、徒然と思い巡らした。

「いまごろは ふるさと全山 紅葉す」 敬鬼

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