寒さも日を追って増してきた。今年もあと残すところ10日あまり、今日は冬至だそうだ。男あるじの説明によると、昼の時間がもっとも短い日なんだそうだ。ということは、これからは反転して昼が次第に長くなっていくわけだ。吾輩は寄る年波に抗せずに寒いと足腰が一段と硬直し、躓いたり、転んだりするので危なくて仕方がない。暖かくさえなれば少しは良くなるので、春が待ち遠しい。 日向でこんなことを自ら問いつ問われつしていたら、女あるじが洗濯かごを抱えてお出ましになった。そして洗濯物を干す前に吾輩の頭を撫でて、
「クウちゃん、心配しないで良いよ。足腰が弱くなっても世話をしてあげるからね。もう、おしめも買ってあるし、安心して良いよ。いまは犬用のおしめも便利なものを売っているのよ。」としゃべり出した。
 吾輩は、
「はあ、さいですか。ありがとうごんす。そのときにはお世話になりやんす」と憮然として、頭をあげて女あるじを見た。女あるじは、吾輩の心底を察したのか、
「クウちゃんは、まだまだ元気だわ。おしめは念のために用意したのだから心配しないで」と慰めにかかった。
 そこへ男あるじが参入し、
「おしめが必要になるのは意外と早いかもしれんぞ。だいたい、尻尾が立たなくなってきているだろう。半年ほど前は、おまえにはもったいないくらい立派な尻尾が背中側に巻き上がるように立っていたのにな。いまはだらりと垂れたままで、尻尾を振ってお愛想をするにも、尻尾が垂れ下がったままなので地面を掃いているばかりだ。老いというのは密かに忍び寄るので自分には分からないのだぞ。」と嫌みをたれた。
 吾輩は、男あるじの顔をはたと睨んで、そのことばはそっくりお返しをすると吠えてやった。このところの男あるじは、小一時間の散歩を歩き通すことができなく、途中のベンチで足を伸ばしたり、腰を伸ばしたりしているのを吾輩もいぶかっていたのだ。これぞ、老いによる脚萎えに違いない。もし人間にも尻尾があれば、きっと男あるじのそれもだらしなく垂れ下がっているはずだ。いやだいやだ、お互いの老醜や老弱をあげつらっても気分が悪くなるだけだ。吾輩は休戦の合図をすべく頭を上げ下げした。
 男あるじも、それを察したとみえて、
「なんだな、相手の老弱はよくみえるが自分のそれは見えないものだ。いや見えているのだがそれを認めたくない心理が働くから見えなくなる。こんな人もいるぞ。高浜虚子は85歳までと長生きしたが、78歳頃から自分の老境を老いの春として多くの句を詠んだ。たとえば、『世に四五歩常に遅れて老の春』、『置き出でてあら何ともな老の春』、『同し道歩み来りし老の春』、『忘るるが故に健康老の春』。これらの俳句では、老弱を楽しむ風情が感じられるな。眼や耳が衰え、脚萎えになるのは仕方がないが、これまでの経験の集積から心は何ものにもとらわれず、自由に闊達でいられるというわけだな。だから、老いを再来した春という意味を込めて老いの春としたのだろう。」としんみりとつぶやいた。女あるじは、干し物を干す手を休めずに、
「そうよ、人生はいつでも春なのよ。老・青・壮・幼、どのときにも春があるんじゃないかしら」と言って家の中に戻った。

「熱燗で逝きし人偲ぶ老いの坂」 敬鬼

- 老いの春-

徒然随想