わが輩は、損得を超越した人生、いや犬生を送っているが、人間様は損得だけで生きているようなところがある。わが輩は、日々の食があれば、住まいは縁の下でかまわないし、着るものは、もともと着た切り雀、いや着たきり犬だ。しかし人間どもは、健康に悪くても甘く、油でこってりと焼いた肉を食べたがるし、住まいは広く、豪華に、そして身につけるものは似合うかどうかにかかわらず流行のものを着たがる。そればかりではなく、まだお金が不足だといわんばかりに、宝くじが当たるといいとか、株で損したとか、はたまた円高がどうのこうのと欲張ること、際限がないようだ。  わが輩にもお米をため込むことはよく理解できる。米不足や飢饉のときには、まずはお米があれば、当座をしのげる。でも、人間がお金を貯め込むさまはわが輩の理解を超えている。なぜなら、一生涯に食べられるお米の量は限られているのに、それを買う以上のお金を何億、いや何十億とため込んでいる者もいるという。お金は食べられないし、墓場まで持って行ってもしょうがないだろうに。
  なにがきっかけだったかわからないが、こんなことを夢うつつの中で思っていると、男あるじが暖かい日差しがさす庭に出てきた。そして、
「お金のことか、そうだな、人間の欲望が集中的にあらわれる問題だな。もともと、貨幣は物々交換を円滑に行うために考え出された便利な道具であった。しかし、文明が発達し、経済行為が盛んになると、貨幣は交換を媒介するものから価値を蓄える機能へと変わっていった。つまりだな、お金を蓄えれば蓄えるほど大きな価値が生まれてきたわけだ。そして、その価値を投資してものを作ったり、ものを商ったりすると、ますますお金が増えていくようになった。資本家の誕生だな。こうなると、もはやお金は独自の価値を持つようになり、お金そのものが経済的な力をもつようになる。お金持ちとは、紙幣を持つ者ばかりではなく、株券、債権、土地、建物などを持つ者ということになる」と語る。
  なるほど、そういうことか、自分が食するに足だけのお金の量を超えてお金を貯め込むのは、お金を投資すると生産手段や流通手段が手に入るからなのだ。わが輩など犬の仲間は、一日に食するものが頂ければ、それで十分だ。食料をため込んで高く売りつけ、さらに食料を貯め込んでも、それで偉くなれるわけではないからな。でも人間は違うらしい。お金があれば偉くなれるのだ。会社の社長になれば、それだけ社会的地位が高くなるし、会社の社会への貢献度によって尊敬もされるらしい。
「そういうことだな。アップル・コンピュータの創設者のスティーブ・ジョブスは、1976年、スティーブ・ウォズニアックと共にパーソナル・コンピュータApple Iを自宅のガレージで開発し、その後Apple IIを発売、またたくまにシリコンバレーを代表する企業にまで育てたという。これは現代におけるサクセスストーリーだ。わずかなお金を投資し、そのときの世間が求めている物をいちはやく開発することで、巨万の富と名声を築いたわけだ」と男あるじ。
  なるほど、頭とお金は使いようということか。ただお金を貯めても、それを社会に役に立つように有効に使わないと死んだお金ということになる。わが輩の主人である男あるじは、生きたお金も死んだお金も関係ないな。そもそも日々の暮らしを支える以外のお金がないのだから。

「みずあめを 5円で買うた 紙芝居」 敬鬼

徒然随想

-お金を生かす-