今朝は冷たい雨が降り出している。11月に入ると雨は吾輩にも肌寒く感じるので、なるべく身体を丸くして首も懐に入れ込んで体温を逃がさないようにする。こうすると、結構身体がぽかぽかしてくるので具合がよい。それでも雨模様だと吾輩の気分も沈みがちになる。まあ、お天道様とは喧嘩できないのでもっぱら朝寝を決め込む。身体が温まってくると自然に瞼が閉じ、夢の世界に迷い込んでいける。
 どのくらいしたろうか、ふと首を挙げると男あるじが吾輩を見ていた。吾輩はしばらく寝たふりをしていると、手にした文庫本を読み上げ始めた。

「『この翁丸、打ち調じて、大島へつかわせ、ただ今』」と。吾輩はさすがに無視できずに、それはなんざんすかと尋ねると、
 これはだな、枕草子に出てくる翁丸という犬の話だ。一条天皇が可愛がっていた命婦という位を与えられたネコをこの翁丸が追いかけ回し、驚いた天皇がとっさに懐に入れてネコを守ったあとで、側近に命じて翁丸を懲らしめ島流しにしろと命じた台詞だな。もっとも、このささいな事件は、言うことを聞かない横着なネコを懲らしめようと女官が戯れに翁丸をけしかけた事を翁丸が真に受けたてネコを追っかけた事による」と話し出した。

 吾輩は、寝ぼけ眼で唖然として男あるじを見つめた。男あるじは、
「あわれなのは翁丸だな、これが冗談なんて犬にはわかりはしない。衛士らに打ち据えられて御所から放逐されてしまった。ところが、四、五日してうらぶれた犬が御所に戻ってきて泣いていた。清少納言がよく見ると翁丸のようだ。翁丸か問うても返事をしない。清少納言がかわいそうなことをしたなと声をかけると、その犬ははらはらと涙を流し、自分が何を隠そう翁丸であると肯いたいう。帝は『あさましう、犬などもかかる心あるものなりけり』と翁丸を許したのだそうだ」と語った。
 吾輩は身震いした。無実の疑いをかけられ、打擲され、死ぬほどの目に合わせられたのに、犬などもかかる心あるものとは何という言いぐさだと憤慨した。犬にも心はある。大事な人が熊に襲われれば身を挺して助けることもある。もっともそんなときは、吾輩は、男あるじの後ろに隠れることにしているがだ。まあ、身を挺して主人を守る立派な同輩もいるという話で、自分のこととなると別だと目で訴えた。
 男あるじも、吾輩のそんな心底はとっくにお見通しで、
「おまえも我が身はかわいいだろうから、それはそれで分かる。翁丸が涙を流したのは、悔し涙と我が身を気遣ってくれた嬉し涙の両方だったのだろう。打擲されても戻ってきたのは、それまで御所の女房たちに可愛がられていたからだな。おまえもきっと放逐されても戻ってくるだろう。ここほど居心地の良いところはないだろうからな」と憎まれ口を叩いた。でも思い返すように、男あるじは、「人間とイヌ族との関わりは、なんでも縄文時代には始まっていたらしい。その遺跡からは埋葬された犬の骨が出てくるそうだ。人間と犬とは数千年の交わりがあるということだし、埋葬されていたと言うことは犬と人間はすでに共生関係にあったといえるな。つまりだ、犬を番犬、猟犬、食用犬など家畜として飼育していたことの他に、いまでいうところのペット、愛玩動物、アニマルコンパニオンとして遇していたと思われるな。ということは、人間とおまえたち犬とのあいだに心の交流が合ったことになる。人間は犬を頼りにするし、犬も人間を頼りにするという関係にあったと言うことだ」と話し終えた。
 吾輩は、ちょっとこそばゆい感がしないでもなかったが、しかし共生関係というのは妥当だと思った。

「ふうふうと湯豆腐つつく初時雨」 敬具

- 枕草子の翁丸-

徒然随想