徒然随想

-大晦日−
   吾輩は、いつも不思議に思うことがある。それは、この家の人間どもが、大晦日から元旦にかけ、年越しと称して、大食、大飲、はては紅白歌合戦なる番組に興じ、吾輩から見ると白痴的大騒ぎをすることである。
  大晦日には、ほとんどこの家に寄りつかない息子までがジープタイプの車に乗って騒々しく帰ってくる。
「やれやれ、久しぶりの家だけれども、何にもすることがないな。こいつでもせせってやるか」とのたまう。
吾輩も、
「やあ、おかえりなさい。元気でしたか。」と、後足でどんと伸び上がり、愛想を振りまいてしっぽを千切れるばかりに振る。そのうちに、吾輩の前足をつかんで立ち上がらせ、チンチンどころかダンスまでさせようとするので閉口だ。でも、この時期、暇そうにしているのは男主人だけなので、吾輩と遊んでくれるとは、少しは我慢してつきあってやらねばならない。
  女主人が自慢する息子は、何でも自動車の部品製造会社に勤めていて、景気は良いらしい。営業マンだそうだが、この家のだれ一人、本当のところは知らないらしい。
  さてと、ところで、大晦日から元旦への日の替わりと、今日から明日へのそれととどこが違うんだろうか。吾輩には、さっぱり分からない。テレビも、この時期が大きなお祭り、大イベントであるかのように、おふざけ、歌番組を流すので、こちらもうわついて落ち着かない。どうも人間どもは、このように狂騒していないと、寂しくやりきれなく、年の瀬を送れないらしい。
  吾輩などは、朝には朝の散歩を、昼には心身をリラックスさせる午睡を、夕には夕方の散歩を心ゆくまで楽しんでいるので、過ぎ去り日々を悔やむことなどない。
  吾輩たち犬族は、朝と夕方しか時間の観念がないので、気楽なものである。朝と夕方は、匂いによる社交のための散歩という大切な時間である。人間が発明した暦も必要なく、時計さえないので、お天道様の示すように自然に生活できる。
  考えてみれば、時間というものは不思議だ。人間どもは、世界中で、暦や時計を合わせて行動している。こうすれば、会議の時間などの調整には、大変、便利であるし、マラソンなどどちらが速く走ったか、どちらが早く新しい事実を発明、発見したかも一目瞭然である。
  時間は、われわれ犬族も含めて、意識の外に実在しているらしい。時間を感じるのは、陽が昇り、陽が落ちるからであろう。人間どもが発明した時計も、原理としては、太陽が登ったり、落ちたりするのを、より正確に表示させるものだ。
  もし、時計というものが無ければ、どのように生活や行動の仕方は変わるであろうか。まず、年齢を知らなくてすむし、定められた時間に学校や職場に行く必要が無くなる。電車の時刻表、銀行の金利、毎年度の国家予算、TV番組表、時間当たりの労賃(時給)、大学入試のためのセンター試験、サッカーの競技時間など、すべて無くなったり、利用できなくなる。人間社会は、時間がなければ崩壊する。
  この点、われわれ犬族は、時間に支配されていないので、気楽である。太陽とともに起き出して、散歩、食事をし、落日と共に、またまた散歩、食事、排便をすればよいのだ。
  吾輩ども犬族は、気ままに時間を支配しているが、人間どもは、その生活、行動そして寿命までも時間に支配されている。吾輩にも寿命はあるが、時計や、暦がないので、そんなことを意識しないでいられて幸いだ。
 人間どもが、正月や節句を祝うのは、これまで無事に過ごすことができたこと、そしてこれからも無事であることを祈ってであるのだが、しかし、昔の偉いお坊さんが看破したように、

「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもあり、めでたくもなし(一休宗純)」か。