晴れて暖かい日が一日あると、翌日は氷雨がふりそそぎ寒くなる。天気の変わり目が早くなってきたようだ。わが輩も、暖かな日はわが庵から這い出てお日様を全身に浴びてうとうとと気持ちよく過ごすことができるが、雨降りの日はうっとうしい限りだ。こんな日は女あるじが家の中にわが輩をいれるので、与えられた毛布の上で丸くなって過ごすことにしている。丸くなって目をつぶっていると、いくらでも眠ることができる。われながら、いったい、わが睡眠中枢はどうなっているのかと訝りたくなる。 そんなことをあれこれ夢想していたら、男あるじがやってきて、「今日23日は節分だな。鬼は外、福は内と豆まきだ。さしずめ、お前が鬼の役目だな」とのんきに話し出した。よっぽど暇なんだろう。すかざず、女あるじが、
「なんてことをいうのよ。クウちゃんが鬼だなんて。クウちゃんこそわが家の福の神なのよ。クウちゃんがいればこそ、我が家はクウちゃんのことで話がはずむし、クウちゃんが散歩につきあうので、みんなの健康が保てているんだわ。ねえ、クウちゃん」と声高に異議を唱えた。わが輩も、女あるじをみて、しっぽをちぎれんばかりに振って賛同を意を示した。これをみて、男あるじは腹を立てたとみえ、
「立春の前日を節分という。節分とは季節の変わり目をさすのだ。この変わり目には鬼のような邪気が生じるので、それを払わねばならない。ここから、鬼は外、福は内といいながら炒った大豆を播く儀式が生まれたのだぞ。豆はには生命力と魔除けの呪力が備わっていると昔の人は考えたのだな。鬼に豆をぶつけることにより、邪気を追い払い、一年の無病息災を願ったわけだ。クウは我が家の居候だ。こんなときくらい、鬼の役目を担ってもバチは当たらないだろう」と弁じ立てた。
  女あるじも負けずに、「それならば、クウちゃんは福の神の役目がふさわしいわ。あなたが鬼になればよいのよ。『クウちゃんは内、あなたは外』なんて、新鮮な響きだわ」と弁じた。
  男あるじは、なおも食い下がって、
「節分に豆まきをすることの起源は、もともと宮中行事にあるのだ。これは宮中の安泰を願ったもので、もし猫を可愛がっているからといって『猫を内、天皇は外』と唱えて豆まきしたらどういうことになるかな」と屁理屈をこね出した。
  わが輩は、この辺で矛を収めた方が良いと思い、ぶらりと毛布の上から玄関の方へと歩き出した。これを見て、女あるじも、
「ああ、もうこんな時間だわ。クウちゃんを散歩に連れださなければ」と立ち上がったので、この豆まき論争は終わりとなった。
  それにしても、人間というものは、わが輩達イヌ族から見ると奇妙奇天烈なことを考えて実行するものだと思う。というのも、現代では鬼とか邪気とかは存在しないことはわかっているのに、ただ豆まきだけを盛大に行っているのだから。儀式の意味は薄れ、いわばエンターテイメントとして残っていると言うことになるわけだ。わが輩も、季節の変わり目に儀式とか祭りとかをすることを否定はしないが、それのよってたつ言われが無くなって、ただ面白がるだけでよいのだろうかと訝るだけだ。こんな風だから、この男あるじのように、わが輩を鬼に見立てるなんてことを思いつくのだろう。鬼や邪気は、きっと自然界にいて人知の及ばない畏怖すべきもののことなのではないだろうか。

「鬼は外 過ぎにし日々の 豆の味」

徒然随想

-鬼は外、福は内