今年の二月はことのほか寒い。そのせいか、わが庵がある庭の池垣の山茶花も、二十日過ぎる頃にようやく満開となった。わが家の山茶花のみが不調なのかと散歩の折りに公園や他家のそれを子細に眺めると、やっぱり今が見頃となっている。普段の年であれば、年の瀬から咲き始め、一月中頃には咲きほこるのが常だったが、これも気候がおかしいせいなのだろうか。こんなことを思いながら、午睡を楽しんでいると、女あるじが庭に干した洗濯物を取りに出てきた。そして、
「ようやく咲き出したわね、クウちゃん。今年は咲くのを忘れてしまったのかと心配したわ。いつもは年が明けると早々に見頃になるのに、今年は何か変じゃない。昨年、肥料を施さなかったのかと危ぶんだわ」と女あるじは同じようなことを述べた。
  わが輩は、灯油の引き売りが大音声で流す「たき火」のメロディを鼻で「かきねの かきねの まがりかど たきびだ たきびだ おちばたき あたろうか あたろうよ きたかぜぴいぷう ふいている。さざんか さざんか さいたみち たきびだ たきびだ おちばたき あたろうか あたろうよ しもやけ おててが もうかゆい。こがらし こがらし さむいみち たきびだ たきびだ おちばたき あたろうか あたろうよ そうだん しながら あるいてく」と歌うと、女あるじは干し物を取り入れる手を休めずに、「なつかしい童謡だわ。寒い朝、学校に行きながら口ずさんだものだわ。いまでは、灯油の引き売りの歌になってしまったのね。そういえば、豆腐屋さんの『トーフィー、トーフィー』も聞けなくなってしまったものね。この団地にも10年くらい前までは豆腐屋さんが引き売りに来て、我が家でも買っていたわ。でも、スーパーに行けば、いろいろな種類の豆腐があるので、いつしか買わなくなってしまったんだわ。町のお豆腐屋さんは商売あがったり、そして町の風物のひとつが消えていってしまう。まあ時代の移り変わりといえ寂しいわね」とつぶやいた。
  わが輩がこの家にお世話になった頃、いまから十数年前には、自転車の荷台に豆腐を入れた箱を積んだ年老いたおじいさんが「トーフィー、トーフィー」と午後の決まった時間にやってきていたことを思い出した。わが輩は、あやしいやつと思い切り吠えてやったが、あれがお豆腐やさんだったのかと懐かしんでいたところに、男あるじもわれわれの会話を聞きつけて家のなかから出てきて、 「なになに、『トーフィー、トーフィー』だって、うーん、なつかしのメロディーだな」と話に割り込んできた。そして、
「童謡の『たき火』に歌われたシーンは山茶花の垣根を除いてもう消えてしまった。たき火や落ち葉焚きはCO2による大気汚染で御法度だし、しもやけをした手をする子どもも見かけなくなったな。落ち葉は、樹木が光合成によって二酸化炭素を取り入れて合成したものだから、燃やしても二酸化炭素の量は差し引きゼロなのに、御法度というのも釈然としない話だ」とぼやいたのか、文句を言ったのか、ひとりで男あるじは憤慨した。よほど、たき火がしたいのだろう。そういえば、わが輩が可愛い子犬の頃は、この庭でたき火をして焼き芋を作っていたな。たき火が御法度ということは焼き芋つくりもできないわけだ。わが輩も、この点は男あるじに同調した。最近は、引き売りも変わってきて、ひところ賑わした「タケザオー、タケザオー」は来なくなり、「マイドオサワガシシテイマス、ゴフヨウニナッタカデンセイヒンハアリマセンカ、ナンデモムリョウデヒキトリマス」ばかりになったな。これもご時世というものかしらん。

「落ち葉焚き 焼き芋ひとつ 温めたり」 敬鬼

徒然随想

-落ち葉焚きと山茶花