吾輩が外にいると、家の中で何やら楽しい声がする。吾輩もそれに加わりたくて
「フィーン、フィーン」と声をあげると、娘がすぐにそれに応じて、
「クウちゃん寂しがっているみたい」とこたえる。
 この家の男あるじが、すかさず
「犬に、寂しいなんて感情があるわけがない」とのたまう。
「寂しいというのは、高等な精神の働きによる。もともと寂しいという言葉は、『あるはずのもの、あってほしいものが欠けていて、満たされない』、ということなんだよ。この意味が転じて、人恋しく物悲しいとか、孤独で心細いとか言う意味で使われるようになった」
娘は、
[だって決まって、家の中で楽しそうに家族のものが話をしていると、クウちゃんがフィーンフィーンと声をだすのよ。これは、僕は一人ぼっちで寂しい、僕の周りには家族がいないと言っているに違いないよ」と話す。
男あるじは、
「動物には恐怖と怒りの二つの情動しか備わっていない。どうしてだと思う。情動と言うのは、もともと自分の命が脅かされたときに起きる防衛的な危急反応として備えられたからだよ」と話し出す。そして続けて
「恐怖や怒りが起きたときには、心臓がドキドキしたり、冷や汗が出たり、呼吸が速くなったり、鳥肌が出たり、筋肉が緊張したりするだろう。これはどうしてだと思う。実はだな、自分の命の危険がある場合には、速やかに防御反応とらなければならない。そのためには、心臓の鼓動を速くして全身にたくさんの血液を送り、呼吸回数を多くしてたくさんの酸素を送り、筋肉を緊張させ、眼をカット見開いて、危険な存在に対して闘うか、あるいは危険な相手からできるだけ早く逃げるかするための準備状態を作らなければならない。つまり、情動と言うのは、自分の身が危険にさらされたときにとる準備反応として備わったものだんだね。だから犬は恐怖と怒りは持っているけれども、それ以外の嬉しいとか寂しいという感情はないんだよ」と男あるじはしたり顔で解説する。
そこで娘は、
「確かに、情動は恐怖や怒りが元になっているのかもしれない。でもクウちゃんの行動を見ていると、うれしいときには尾っぽを激しく振るし、寂しいときには、ほんとうに寂しそうな声を出すよ」
と反論する。
 吾輩もなんだか分からないが、恐怖や怒り以外にも、もっと複雑な気持ちの変化があるように感じている。ハッピーちゃんに会えば嬉しくて尾っぽがひとりでに風車のように回り出すし、嫌なおじさんに散歩の途中に出会うと下を向いて避けて通りたくなる。これは、恐怖や怒りとは違うなと吾ながら思案する。そこで、また、大きな声でフィーンフィーンというと、たまらず、女あるじが外に出てくる気配がした。やれやれ、やっと吾輩の気持ちが通じたようだ。
 男あるじは、
「もし、犬が寂しいとか嬉しいとかの感情を持っていることが分かれば、これは大発見かも知れないぞ」と、これも腕組みして思案する。
「尾っぽを振るのは、相手に対して敵意をもちませんという合図として理解できそうだ。相手も尾っぽを振っている犬をみれば、警戒心を解いてもよいと判断できる。しかし、フィーンフィーンという声音は寂しいと言う合図なのだろうか」
こんなことを思案しているところに、吾輩は女あるじに抱かれてやってきた。すかざず、男あるじは、吾輩を穴のあくほどながめてから、
「やっぱ、こいつには寂しいなんて感情があるはずがない。人間が擬人的に寂しいに違いないと解釈しているからだ」とぶつぶつと言いながら、2階に上がっていった。吾輩はそこで、2階に向かって
「それでも、人恋しいときは恋しくて寂しいんだ」と力一杯ほえてやった。

 「やはらかに積れる雪に
  熱(ほ)てる頬(ほ)を埋(うづ)むるごとき
  恋してみたし」(啄木)


徒然随想

-寂しい気持ち-