今朝も男あるじは、額に汗し、お経ならぬ方丈記の一節を唱えながら、わが庵、いやわが縁の下にやってきた。「それ、三界はただ心ひとつなり。心、もし、やすらからずば象馬七珍もよしなく、宮殿楼閣ものぞみなし。今、さびしき住まい、一間の庵、みずからこれを愛す。おのずから都に出でて、身の乞がいとなれる事を恥づといえども、帰りて、ここにをる時は、他の俗塵に馳する事をあはれむ。もし、人、このいへる事をうたがはば、魚と鳥のありさまを見よ。魚は水に飽かず。魚にあらざれば、その心を知らず。鳥は林をねがう。鳥にあらざれば、その心を知らず。閑居の気味も、また同じ。住まずして誰かさとらむ」とつぶやいた。
 わが輩は、はじめはさっぱり、その意味するところがわからなかったが、男あるじが二度三度暗唱すると、しだいに、これこそわが心境を詠っているのではないかと思い始めた。とくに、『今、さびしき住まい、これを愛すと』は、わが輩のことを言っているようだ。また『閑居の気味、住まずして誰かさとらむ』なぞ、まさに、わが輩の縁の下での穏やかな日々の暮らしを讃えているようだ。にちにちこれこうじつ(日々是好日)の生き方だ。
 男あるじは暗唱をやめ、わが輩をじっと見た。そして、なーーるほどな、と嘆息して、
「これは方丈記の最後の方に記された、いわば、鴨長明の人生訓、いや悟りの境地といって良いな。つまり、心が安らかでなくば、どんな豪邸に住もうと、どんな財宝を持とうと何の役に立たないと言っている。つまり、地位、身分、財、色などこの世のもろもろのことにに執着する限り、心は安んじることができない。これは負け惜しみでいっているのではない。疑うならば自らこの質素な庵に住んでみよ。このうえなく住み心地良く、にちにち好日でいられる、というわけだ。それにしてもだ、お前にもこの境地がわかるというのは妙ではあるな、いや奇妙と言ったほうがよいのかな。まあ、たしかにおまえの日々の暮らしを観察すると、立身出世に縁はないし、財貨はイヌの鼻にダイヤモンドだし、末は博士か大臣かもイヌの惑星にでもならない限り無理だしな。はじめから執着するものが無いのだから、幸せかもしれない。当てがい扶持を受け入れ、これこそイヌの生き方と悟れば、日々是好日といえる」
 わが輩は、くしゃみをひとつすると、縁の下にもぐり込んだ。わが男あるじはまだ悟りきっていないようだし、雲門文偃禅師の深遠なる悟りも理解していないようだ。確か、禅師は、毎日いい日が続いてけっこうなことだ、などといっているのではないと聴く。良い日、悪い日といった執着から離れて、いま、この時をありのままに過ごす。これこそが、やすらぎをもたらす、と教えていると聴いたが。男あるじはわかっているのだろうか。
「おやおや、おまえはおれに説教するのか、偉くなったものだ。知ったかぶりするな」とえらい剣幕で男あるじは縁の下のわが輩をにらんだ。やれやれ、やすらかさとは縁遠いお人らしい。わが輩は、縁の下のさらに奥の方にひっこんで、男あるじをなだめるためにフィーンフィフィと鼻を鳴らした。
 男あるじは、
「おまえの生き方をみていると、たしかに、学ぶところはあるな。毎日、定時に朝散歩にいき、朝食をとり、朝寝をし、しばらくして居所を変えて昼寝を楽しみ、そして夕散歩に喜々として出ていく。そのあとは、夕飯としゃれこみ、もう夜寝に入る。毎日毎日、まさに判で押したような暮らしで、これに疑いをもたない。満ち足りているようだ。これこそ、日々是好日なのだろうな。それにひきかえ、人間は、判で押したような生活には満足できずに、何か刺激を求める。でも求めても満ち足りることはない。そこでまた求める。しかし、健やかににちにち暮らせることは、本当は、有り難いことといわねばならないのだな」と男あるじはしみじみとつぶやいた。

「朝顔や 今朝も微笑み 開きけり」 敬鬼


徒然随想

-それ、三界はただ心ひとつ