徒然随想

      秋刀魚

今夕、男あるじはうきうきした様子である。それとなく、眼でかまをかけてみると、どうやら、夕食に今年初物のさんまが出るので、思わず、浮かれているらしい。馬齢を重ねても、初物には目がないのだろうな。その点、わが輩のメニューは、365日、まったく変わりがない。乾燥フードに缶詰のミートだ。もっとも、この家の女あるじは、食べ物をけちらないので、わが輩にも結構良質な缶詰のミートを喰わせてくれる。男あるじは、「秋刀魚は日本の秋の味なんだぞ。この魚は、秋になると産卵のために寒流に載って東北地方にやってくる。あの東日本大震災があった気仙沼の沖合あたりが好漁場だ」と講釈をし出した。わが輩は、秋刀魚の長い胴体を思い浮かべながら、そうかそんなに遠くから日本まで回遊してくるのか、と驚嘆した。男あるじは続けて、
「秋のサンマは脂肪がのっていて、なんともいえずに旨いものだ。とくに、さっと塩を振って七輪でもうもうと煙を立てて網焼きにした秋刀魚は絶品だな。これを酒の肴にいっぱいやると、夏の疲れも癒されて、元気が出てくるのだよ」とのどをならす。わが輩から見ても、いやはや、はしたない。「そういえば、秋刀魚を詠った佐藤春夫の詩があったな。あれはいい。我が心情を適確に、しかも情緒深く表現していたな。どれ、吟じてみるかな。
『あはれ 秋風よ こころあらば伝へてよ 男ありて 今日の夕餉に ひとり さんまを食ひて 思ひにふける と』 
これは、ひとりで秋刀魚を食し、秋風のなかでもの思う情景を詠ったようにみえるが、じつは、人に捨てられようとしている人妻と、妻に背かれた自分の間の複雑な人間関係を秋刀魚にかこつけて吐露しているのだよ。この詩は、最後の方で、
『あはれ  秋風よ  こころあらば伝えてよ、 夫を失はざりし妻と 父を失はざりし幼児とに伝えてよ  男ありて  今日の夕餉に ひとり  さんまを食ひて、 涙をながす、と。さんま、さんま、 さんま苦いか塩っぱいか。 そが上に熱き涙をしたたらせて さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。 あはれ  げにそは問はまほしくをかし』と結ぶ。 この詩は、秋刀魚と人間の三角関係をリンクさせたところが共感を呼ぶ。」
 なるほど、人間は高尚というべきか、あるいは高等な遊びに耽っていると言うべきか、わが輩にはわからないな。きっと、人間達は自分たちが築いた掟に束縛されて、身動きが取れなくなってしまうのだな。掟は、本来は、わが輩たちのように、群れを統率し、トラブルを避け、個体でも集団でもより良く生活し子孫を増やしていくしくみなのに、人間の世界の掟は、それへの違反を倫理的ではないと決めつけ、その者たちのこころを罪責感で満たしてしまうようだ。だからこそ、その葛藤から、このようなすばらしい詩が生まれるのだな。
 それにしても、秋刀魚は、食して旨く、愛でて秋を感じさせる不思議な魚だな。秋を感じさせる魚も鮭、鮎とあるが、たとえば『ひとり鮭を喰らいて思いにふける』では、冬眠前の熊のようで、やっぱり様にならないのだろうな。

「一箸に秋が籠もれる初秋刀魚」 敬鬼