徒然随想

- 三が日

 吾輩は、年が改まったのも知らずにいつもの縁の下の庵でうつらうつらしていたら、男あるじと娘あるじが珍しく一緒にやってきて、娘あるじが、
「クウちゃん、明けましておめでとう。新しい年が来たのよ。クウちゃんも15歳。これからも健康で長生きしてよ」とあいさつした。吾輩は、「ワンワンクウクウクィーン」と挨拶を返した。男あるじも、「そうか、生まれて15年も経ったのか。それにしてはいつもでも脳天気な顔をしているな。犬も年相応に老け顔になるものだが、あいかわらず童顔というか、アホ面というか、おめでたい顔をしている」と憎まれ口を叩いた。吾輩は、それをそっくりと男あるじにお返ししたいという顔つきをしたら、男あるじは、何を勘違いしたのか、
「そうだろう、私もめでたく古希となる年を迎えた。この面相も風雪70年を生き抜いてきて、知性と感性、それに信頼性のあるご面相をしているだろう。人間、年を経ればそれなりの顔を持つようになる。いつまでも童顔ではアホにしか思われないからな」とほざいた。
 やれやれ、元旦からこんなでは今年も思いやられる。吾輩としては、余命1~2年を平穏に過ごしたいと念じているのに、これでは波風どころか嵐が吹き荒れそうだと感じた。すると、娘あるじが吾輩をかばうように、
「そうよ、クウちゃんはこんな童顔だけれども、もう高齢なんだから大事にしてやらなければね。これまで、家の者はこの童顔にどのくらい癒されたものかわからないわ。腹が立っても、ちょっとした口喧嘩をしても、クウちゃんが割って入ってくれると自然に仲直りできたり、怒りが治まったりしたわ。クウちゃんは、まさにわが家の福の神いや癒し犬神なのよ。今時の言葉で言えば、セラピー犬神なのだわ。だから、できるだけ長生きしてね」と早口でまくし立てた。
 吾輩は、ちょっと照れたが、それでもお役に立てて嬉しいですという顔つきで娘あるじに返礼した。これを聞いていた男あるじは、不利を悟ったのか、突然話題を転じて、
「年が改まったといってもなにも変わりばえはしないものだな。そういえば、あの漱石先生も『一人居や思う事なき三が日』と詠んでいる。さすがの漱石先生も、ボーとして元旦からの三が日を一人無聊に過ごしたのだろう。とりわけて、何をするでもなく、一年の計を立てるのでもなく、年始参りに出かけるのでもなく、家でぐうたらぐうたらしてしまったわいという味がこの俳句には良く出ているな。きっとこんな正月を無意識に念じていたからだな。漱石と親友だった子規先生も、『初日さす硯の海に波もなし』と作句し、平穏な元旦の一日を詠んでいる。もし、心穏やかでなかったならば、硯を貯める海も波だって見えるだろうが、今はいたって心静かで擦った墨汁がのたりと漂っているように見えるというわけだ。子規先生も文筆を生業としているので、もし心に期するものがあれば墨の海も波立たないわけにはいかない。きっと、平穏な三が日を迎えたことを感謝しているようだ」と話した。
 娘あるじも、
「お正月ではしゃぐのは子どもの頃だけだわ。大人になれば、その高揚感は消え、なんかしらけた気分で過ごすことになるのよ。一茶も『正月の子どもに成りて見たき哉』とよんでいるでしょう。大人は無病息災であることを神に感謝し、厳粛に三が日を過ごすのがよいのだと思うわ」とつぶやいて家の中に入った。
 吾輩は、正月と言わず年中平穏なので、あらたまって平穏を念じることはない。まあ、それだけこの家の者は、ちょっとした風邪や腹下しに罹る者の、無病息災で、吾輩もそれに預かって平穏でいられるというわけだ。男あるじも女あるじもすでの退職して久しく、年金暮らしだが、生活には余裕がありそうだ。吾輩も左うちわというわけにはいかないが、まあそれなりに暮らしが立っているので、憎まれ口には閉口するものの、それさえ聞き流せば死ぬまで平穏でいられそうなのはありがたいことだ。

「三が日昂ぶることなく過ぎにけり」 敬鬼