吾輩は寄る年波に勝てず男あるじや女あるじの夕方の散歩につきあえなくなってはや3ヶ月が経ってしまった。吾輩がウォーキングのお供をしなくなれば自然とやめるだろうとにらんでいたら、案に相違して二人は仲良くウォーキング継続している。メタボの解消と体力の維持をはかってのことらしい。聞くところによると、この頃は頭の体操をかねて俳句を一句吟詠するというしゃれたことを始めたようだ。というのも、ウォーキングから帰ると、その日にものした一句を俳句日誌とやらに書き加えているのだという。ウォーキングから帰った男あるじは、「良い句が詠めたな。いや私のことではない。カミさんの方だ。『日めくりの薄さに驚く師走かな』。まあ、その心は毎日めくる日めくりカレンダーをみると、いつのまにか残りの枚数が少なくなっていた。そういえば師走だ、あと三十枚も残されていない。ということは今年もあと30日しか残っていない。この間お正月を迎えたと思ったら、もう大晦日が間近で、月日の過ぎるのはなんと早いのだろう。いったい私は今年何をしたのだろうか。光陰矢のごとしと言うが、まったくそのとおりだわ。まあ、こんな感慨がこの句には込められているな」と男あるじは話し出した。
 吾輩の命は旦夕に迫っているようなので、この句には共鳴するところが大いにある。まあ、生きとし生けるものすべていずれはその日を迎えねばならないのだから、今を大事に生きるしかないのだ。このやりとりを聞いていた女あるじは、
「今を大切に今を惜しむこんな句も詠んだわ。『こおろぎや秋よ戻れと羽を擦り』。散歩していたら夕暮れのすすきなど雑草の草むらなかでコオロギが鳴いているのがふと耳に届いたのだわ。あれ、まだ秋の虫が生き残っているのかしら、空耳かなと耳をすましてみると、やはりリリリリリィと鳴いているのが聞こえたんだわ。そのとき、もう冬がくるので鳴いていられるのもわずか、できればもっと生を楽しんでいたいものだわ。秋が戻ってくれればありがたいんだけれどもとコオロギに感情移入して、この句が生まれたといったところね」と解説した。
 吾輩も、同感だ。身体が元気で転げ回るように動いて頃に戻ってくれればこんな嬉しいことはない。今はいざるようにしか動けないし、ただ寝るばかりだ。寝ると言ってもこれは午睡とは違って眼をあけてはいられない体力の衰えから来るものだから、快適でもなんでもない。せめて半年前に戻ってくれたらと切に願わんでもないな。
 「『人偲ぶ師走の風とちぎれ雲』。これは私の詠んだ句の一つだ」と男あるじが続けて話した。吾輩も男あるじが自慢たらたら自分の詠じた句を紹介しないのを奇異に思っていたので、ようやくお出ましになったと見やると、男あるじは、
「師走が来ると亡き人のことが心に浮かぶものだ。すでに両親、叔父、叔母、いとこ、親友、先輩と多くの大切な人を送ってきた。日頃は思い出すこともなく過ごしてしまうが、なぜか師走になると、亡き人をのことそしてその人たちとのあり日の出来事が瞼になつかしく映じるのだな。子どもの頃の師走は、お菜あらいや大根洗いをおふくろから手伝わされ、水が手を切られるように冷たかったなとか、渋るおやじに頼み込んで映画にゆくお金をもらったなとか、早世した従兄弟と一緒に模型飛行機を夢中に組み立てたなとかだ。でもみんな鬼籍に入ってしまった」とまなざしを遠くに向けた。
 吾輩が鬼籍に入った後もこんなふうに偲んでくれるだろうかと聞いてみたくなったが、押しつけがましいので眼で訴えるのにとどめた。

「わくわくもはらはらもなき師走かな」 敬具

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