クリスマス寒波襲来とかでいやに寒い日となった。今日はクリスマスイブだとか、わが輩には関係ないことでやんすが、人間世界は何となくこの寒空でも浮き浮きしているようだ。しかし、寒いな、これでは昼寝も身体が凍えてしまいそうだ。陽も射すのだが、じきに雲に遮られ、そうすると暖かさも途端に消えてしまう。こんな時に限って男あるじも庭に出てくるのが遅くなる。「炬燵にでもあたって地豆やみかんでも食べているのだろうな」、と愚痴をこぼしていたら、ようやく男あるじがお出ましになった。わが輩は、男あるじに尻尾を振ってお愛想することはめったにないのだが、今日ばかりは寒さから解放されたいのでめいっぱいに尻尾を振って出迎えた。男あるじもわが輩の尻尾によるお愛想に気づいたとみえて、珍しく頭を撫でた。そして、
「そうか、寒いのか、お前も背に腹は代えられないのだな。いつもは尻尾を振ることはないのに、腹に一物、背に荷物だな。それが行動にすぐに現れる。現金なものだ」と嫌みを言った。
 いつもなら、わが輩は反論しそっぽを向くのだが、こう寒くてはそんな無駄な抵抗をしても仕方がないので、なおも尻尾を振り続けた。
「知っているか、今日はクリスマスイブだ。まあ、キリスト生誕のお祭りの前夜祭ということだ。我が家はキリストではなくお釈迦様だから、まあ、関係しないお祭りだ。だが、なぜか日本人はこのお祭りが好きなようだ」と男あるじは無駄口をたたき始めた。
  わが輩は、そんなことより散歩、散歩、もうしっこも漏れそうなんだ、と眼と首と尻尾で訴えた。それに気づいているのに、この男あるじの性悪さで、散歩に行くのを引き延ばし始めた。そして、
「クリスマスを一番楽しみにしているのは、実は子どもなのだ。この私にも子ども時代はあった。そして小学校高学年ころまではサンタのプレゼントが楽しみだった。そう、正月のお年玉よりはずっと今年は何がプレゼントされるかわくわくして待ち望んだものだ。ある年、そう四年生の頃だな、サンタが来た翌朝、枕元には紙に包まれた四角なものが置かれていた。さっそく手に取り開けてみたら、一冊の本が出てきた。「ああ無情」と書かれていた。無情、これはどういう意味だ。当時の私の知識では無情の意味は分からなかった。それまでの私は少年雑誌や漫画を見ることはあったが、本を読むと言うことはあまりなかったからだ。期待していたのは、飛行機、船など工作模型だったのでちょっとがっかりした。それでも装丁が立派な本だったので、朝食後読み出した。そしたら、なんとこれは波瀾万丈の物語であることがわかった。そう、お前も聞いたことがあるだろう、あのジャンバルジャンの物語だったのだ。後に、これはレ・ミゼラブルという有名なフランスの小説の子ども向けのダイジェストであることを知った。これがきっかけで本を通してまだ知らない世界を知る楽しみを覚えたものだ」と長々と子ども時代を回顧しだした。わが輩は、しっこを我慢しながら、
「本当にサンタなんているのですか。サンタは親ではないのでしょうか」とわざとチャチャを入れたところ、
「こんな有名な話がある。それは、ニューヨークに住むある少女が『ニューヨーク・サン』という新聞に手紙を書き、サンタは本当にいるのかと質問したのだ。そしたら、『ニューヨーク・サン』は、この質問を受付、この少女に社説でこんな風に答えたのだ。要約すると、『サンタクロースはいるのです。愛や、思いやりや、ひたむきな心というものがあるように、サンタクロースも存在しているのです。こういった心をもっている人はたくさんいて、私たちの人生に無上の美と喜びをもたらしてくれています。サンタクロースのいない世の中なんて、さびしいではありませんか。子どもらしい心、詩、ロマンスがあるからこそ、この世のつらいこともがまんできるのではありませんか。サンタクロースのいない世の中なんて、手でふれたり、目で見る以外に喜びがなくなる世界です』。まあ、ざっとこんな風な答えだった。これは百十年前に起きたことだが、この精神は世界中で生きているのだな」と話し終えた。
  やれやれ、やっとおしっこに行ける。しかし、男あるじの今日の話は、最近では傾聴に値するな。確かに、子どもには夢を与えることが大切だ。そのために夢を運ぶ人も必要ということだな。

「掘り炬燵 地豆とみかん サンタ待つ」

徒然随想

-サンタクロース