晩春から初夏へと季節は移っているようだ。わが輩の周りの花々もつつじが終わり、さつきがちらほらと咲き出した。わが輩は、この季節、これらの花を見ながらといっても色は見えないが、葉っぱとは違う輝きを見るのが楽しみだ。これらはさして匂わないが、辺りをその輝きで明るくしているので心地よい。こんなことを思いながら、夕方、男あるじが散歩にわが輩を連れ出すのを今か今かと待っていた。いつもは、そそくさと出てくるのに、わが輩が待ち望む日に限って遅くなるから困ったものだ。意地悪をしていると言うことではなく、わが輩と男あるじの波長がシンクロしないらしい。 ようやく、男あるじが目をしょぼつかせながら現れた。どうやら、昼寝をして寝過ごしたらしい。確かに、ちょっと暑いなと感じる日は、わが輩もやたらと眠くなる。きっと、身体全体が温めの風呂に入ったように弛緩するからだろう。
「さてさてと、そろそろ出かけるか。さつきもちらほらと咲き出しているので見て回るか」と男あるじはつぶやいた。わが輩も、尻尾を振り前足で飛びついて意気込みを示した。男あるじもその気になって、散歩用のリードにつけかえながら、
「ところでだな、つつじとさつきの違いが分かるのか」と唐突に尋ねたので、わが輩は仰天してくしゃみをした。わが輩がさきほど思ったことがどうして伝わったのだろうかといぶかると、そんなことには頓着なく、男あるじは、
「つつじが五月初旬ころから咲き始め、それが散ると5月下旬から6月中旬にかけてさつきが咲くだろう。でも、どちらも葉っぱといい、花といいよく似ている。ただ、さつきは葉も花もつつじよりは小振りだな。どちらもツツジ属に分類されるものだ。さつきはツツジ属サツキ種、つつじはツツジ属でこの属の下に多くの種がある。実は、シャクナゲもツツジ属なのだ。この花は葉も花も大振りだな」と話し出した。やれやれ、お散歩はどうなりますのでと催促すると、
「つつじもさつきも沢山の花をつけるので、花のシーズンには見応えがあるな。たいていの公園やホテルの庭園、道路の池垣、家々の庭で咲きほこっている。もっとも、さつきは池垣などに植えられているのが多いな」と話でもなく話した。ようやく歩き出したが、歩きながら、
「そういえば、つつじの季語は春、さつきのそれは夏だったな。花の咲く時期から考えて、この違いは諾なるかなだ。蕪村も『近道へ出てうれし野の躑躅哉』と詠んでいる。近道をとったらたいていろくなことはないのに、なんとそこには躑躅の咲く野原に出たぞ、こんなうれしいことはないというわけだ。まことに素直な感情の吐露と言って良いな。こんな蕪村の句もある。『つゝじ咲て片山里の飯白し』。これはどういう意味だろうか。きっと白い花のつつじなのだろう。白いつつじの花がまるでこんもりと白飯を盛ったように咲いていると詠っている。さつきを季語とした俳句では、芭蕉が奥の細道で『笠嶋はいづこ五月のぬかり道』と詠んだ。さつきは梅雨時に咲く花というイメージなので、雨と関わっている俳句が多いようだ。芭蕉には『海は晴れて比叡降り残す五月哉』というのもある。雨はやみ琵琶湖の海は晴れて見えてきたが、まだ比叡のお山は曇ったままで見えないと詠んだ。ちょうど、『さみだれの降り残してや光堂』とは逆を表現している。そこだけあたかも雨が降らないように輝いていたのは光堂で、琵琶湖は晴れ上がったのに雨がなお降り留めたのは比叡のお山だという」と一息ついた。
  わが輩は、歩きながら匂いを嗅ぎ当てながら聞くともなく聞いたが、たいして面白くはなかった。分かったことはつつじは五月晴れが似合い、さつきは雨が似合うと言うことらしい。

「つつじ咲き うぞうむぞうの 虫が飛ぶ」 敬鬼

徒然随想

-つつじとさつき