徒然随想

-触る、触られる
  わが輩が公園で春に芽生えたおいしいくて柔らかい草を食べていると、小さな女の子がこわごわと寄ってきた。知らん顔をして草を食べ続けていると、男あるじが、
「犬が好きなの、名前はクウタローというんだよ。おとなしいから大丈夫だ」と話しかけた。その子のお母さんは少し離れたところで見ている。
 しばらく、どうしようか迷っていたが、その女の子はこわごわとわが輩の背中を触わりはじめた。わが輩は、草を食べているのを妨げられたので、ちょっと鼻先を女の子の手に近づけた。女の子は、びっくりして手を引っ込めた。
  それでも、もっと触りたかったのだろうか。しばらくためらった後で、わが輩の背中を撫でだした。わが輩も、お座りをしたまま、しばらく女の子のなすがままにさせておいた。
どうも、人間という生き物は、わが輩たち犬を触りたがるようだ。わが輩は何かに触るより、まず匂いを嗅ぎにいく。ここでも、女の子の手や足に鼻を近づけて、その臭いを嗅ぎ、人間の女の子であることを確認してある。
  一方、人間どもは、目で見てから嗅ぐのではなく、何でも触りにいく習性があるらしい。きっと、手という器官が発達しているからだろう。いや、そればかりではなく、手触りを楽しんでいるのかもしれない。
  こんなわが輩の思案を察したのか、
「そうなんだな。人間には生まれつき接触の快というものがある。つまりだな、手触りの良いものに触れ、その接触時の快感に浸りたいという欲求だな。これは、かなり強いもので、赤ちゃんや子どもは、お母さんに触れるだけで安心でき、元気を取り戻す」
「なるほど、犬族が臭いを嗅ぎ、臭い付けをして安心するように、人間族は手で触れ、そして触れられて安心するのだ」とわが輩は理解した。男あるじは、さらに続けて、
「おまえだってそういうところがあるだろう。おまえが何やらイライラしてフィーンフィーンと騒ぎ立てているとき、女あるじや娘がひょいと抱き上げてやると、途端におとなしくなると言うじゃないか」
  たしかに、わが輩にもそういうところがある。
「動物のお医者さんに予防注射に出かけても、診察台では注射をいやがり、抱っこされていると注射でも歯石採りでもなんでもされるがままだそうだな」と男あるじ。
「うーん。そんなことまでばれていたのか」とわが輩は目を白黒させてごまかした。
  わが輩にも、抱っこされたり、撫でられたりすると安心するところがあることは確かなようだ。人間族は、このことをもっと強く求めるのだろう。何せ、自分の子どもでも大きくなれば、めったに触らせてはくれないし、撫でてもくれない。ましてや、女の人を撫でれば痴漢と言われ大変なことになる。
「そうか、人間族が犬や猫をペットとして飼うのはそのためなのか。われわれは触られても、抱っこされても尾っぽを振ることはあっても吠えることはない。従順なものだ。人間族は、われわれから接触への快を得ているんだな」とわが輩は思案した。
  男あるじは、真相を、いや深層心理を見破られたかといった顔をして、あわててそれを隠すためにそっぽを向いた。そして、
「昼寝ばかりしているクウタローも、少しはお役に立っているというものだな。われわれ家族の接触への快を満たしているんだからな」とうそぶいた。
最近、アニマルセラピーなるものが注目され始めたと、老犬のコータローに聞いたことがある。何でも、認知症のあるお年寄り、身体が不自由になった人、心の病気に罹った子どもたちが、ペットに触れることで元気を取り戻すんだそうだ。きっと、ペットに触れたり、抱っこしたりすることで接触への快が得られるからだろう。
  わが輩も、せいぜい、触らせたり、抱っこされたりすることにしよう。それにしても、これはこれで、結構しんどいものだ。慣れ親しんだわが輩の家の者なら緊張もしないが、近所の女の子となると、いちいち臭いを嗅いでからではないと安心できないので、これはこれで疲れるんだな。でも、まあ人間たちには食わしてもらっているので、このくらいはお返しをしなくちゃなるまいって。
そういえば、押しくらまんじゅうという遊びが昔はあったな。あれは冬の寒いときに身体をくっつけあって暖め合った遊びだったけれど、きっと接触の快も得ていたんだな。昔の人の知恵は、はかりしれないな。

「押しくらまんじゅう、押されて泣くな、
「押しくらまんじゅう、押されて泣くな」