徒然随想

−成年(成人)式−
   吾輩は、人間の歳に換算すると60歳である。この顔を見てほしい。どことなく落ち着いた雰囲気があるし、青年の気もあふれている。しかし、吾輩はまだ成年式はやってはいない。吾輩らは人間どもと異なり、青年であると自分が自覚したときが成年なのだ。身体的年齢よりは精神的年齢を重視する。吾輩も散歩中の臭い外交で、おしっこを嗅げば、オスかメスか、幼年か成年か、おしっこのかけられた高さで大きい犬かどうかまで分かる。しかし、同輩の精神の成熟度までは分からないのでやっかいだ。
  男あるじも、最近の大学生の精神の成熟度の発達は遅くなっているのではないかと案じているようだ。そして、吾輩に聞かせるともなく、つぶやいた。
「身体的な成熟は加速されている。それは初潮年齢にもあらわれているようだぞ。最近の初潮年齢は12.3歳とある。小学校6年頃には初潮があると言うことだな。今から60年くらい前は、栄養も悪かったせいか、それは15歳から16歳、つまり中学2年生から3年生くらいだった記憶している」
  吾輩も、同輩のメスの初潮年齢が加速されているかどうかは、うかつにも気がつかなかった。きっと、吾輩らの栄養も、汁かけご飯からドッグフードへと大きく変化しているので、初潮年齢も早くなり、寿命も延びているんだろうなと感慨にふける。
「確かに、いまどきの若者の体格はりっぱになった。でも若者の心格も加速されて成熟が早くなったかというと、どうも体格と心格とは反比例しているようだな」
と続けてつぶやく。
  そこへ、若者の代表を自認するこの家の娘が割って入って、のたまう。
「心格なんて変な言葉?聞いたこともないわ。人間一人一人の顔の形が違うように、心の姿も違っていていいのじゃないの。昔のように、野菜じゃあるまいし、若者を十把一絡げにして、この若者は心の成熟度が進んでいるとか、遅れているとか、大人になりきっていないとか言うことの方がおかしいのよ。末は博士か大臣か、これは古すぎるにしても、昔は立身出世をめざす時代だった。そんな時代ならば、社会の働き手として、戦力として若者には早く一人前になってほしかったでしょう。でも、今は、起業しお金を稼ぐことを生きがいにしている人、仕事はそこそこにして趣味に生きがいをもつ人、一人暮らしを楽しみたい人、家族といつまでも暮らしたい人など、さまざまな生き方が許される時代になっているわ」
  やはり、この家の娘は若者の代表を自認するだけのことはあるなと、吾輩は感じ入った。吾輩らも、昔は番犬、猟犬として社会の働き手に加えられていたが、いまはアニマルコンパニオンだ。吾輩らも人間どもの心の癒しに大いに貢献している。でも、ここがむずかしい。吾輩らの精神の成熟度が高まりすぎると、人間に甘え、媚びを売るなんぞ、やっていられなくなる。吾輩も、昔の先輩のように、ウサギやキジを追ってみたくなる。
このようなやりとりを聞いていた男あるじは、末は博士か大臣かの世代を自覚しているだけに、ばつが悪そうな顔つきをして、草むしりに精を出す振りをしだした。中原中也は「山羊の歌(盲目の秋)」のなかで、自分は自分、頼るのも自分だけと歌っている。

「これがどうならうと、あれがどうならうと、
そんなことはどうでもいいのだ。

これがどういふことであらうと、それがどういふことであらうと、
そんなことはなほさらどうだつていいのだ。

人には自恃〈(じじ)自分をたのみとすること〉があればよい!
その余はすべてなるまゝだ……

自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行ひを罪としない。」