徒然随想

蝉の鳴かない夏
 わが輩は、今夏、不思議に感じていることがある。学校も夏休みに入り、いまや夏最盛期なのに、公園が静かなのだ。どうしてかな?と思案して、はたと気が付いた。そうだ、蝉が鳴いていないのだ。いや、蝉が居ないらしい。この猛暑にあのジージーという油蝉の鳴き声が聞こえないのは寂しい限りだ。これでは、日本の夏とは言えない。
 男あるじも、わが輩の顔をのぞき込み、我が胸の内を察したらしい。
「まったくだな。自然界はどうなっているのかな。また、天変地異の前触れでなければよいがな。例年だと、蝉時雨といわれるくらいにうるさく鳴き、地上での短い蝉生を謳歌するのにな」とぶつぶつ。
 わが輩も、市民公園を夕方、散歩し、梢の彼方からヒグラシのカナカナという澄んだ高音が聞こえると、なぜか耳をそばだてたものだ。
男あるじも「このくそ暑いのに、蝉も鳴かずにシーンとしているのは異様だな。日本人には、蝉は昔から身近な存在で、源氏物語には空蝉の段がある。空蝉とは蝉が脱皮した抜け殻をいい、はかなきものの例えになっている。蝉の一生は、地下で7年を過ごし、地上に出てきたら1週間ほどの命である。だから、入道雲がむくむくと立ち上がった青空の下で精一杯、命を謳歌するかのように鳴く。人間にはそんなふうに感じられるのだな。ところが、蝉が鳴かない。これではまるで、秋の虫が鳴かないお月見のようなもので、風情がないな」
  これには、わが輩もまったく同感だ。猛暑に耐えることができるのも、このとき限りと鳴く蝉がいるからこそだ。画竜点睛をかくといって良いな。
 男あるじは、続けて、
「もし、あの芭蕉が山寺を訪れ、しーんとしていて蝉が鳴いていなければ、あの名句、そうだな、おまえでもしっている『閑かさや岩にしみいる蝉の声』は吟じられなかったわけだ」 そこで、ちょっと尋ねてもよろしいか?とわが輩は上目遣いに顔をあげると、なんだというようにこれも下目遣いに応じる。
「といいますのも、蝉が鳴いているのになんでしずかなんですか?」
男あるじは、待ってましたとばかりに、
「これはだな。音がうるさいとか静ずかとか言っているのではないんだな。閑かというのは落ち着いてのどかな様子を指す。つまり、あの山寺、立石寺の境内は、音が静かというのではなく、仏さまがおわします穏やかでのんびりした様子をうたっている。しかも蝉が鳴くことによって、そんな雰囲気が一段と深まるように感じられるというわけだ。最近の研究では、ここで鳴いていた蝉は油蝉とかミンミンゼミとかではなく、日暮らしだといわれている。そうだな、ジージーでもなく、ミンミンミンでもなく、澄んだ高音のカナカナカナがふさわしい。そうすれば、あの硬い岩のなかに鳴き声がしみ込んでいくだろうね」
 なるほど、男あるじは伊達に歳をとっているわけではないようだ。気をよくしたのか、
「子規も蝉を吟じている。たとえば、次のような句がある。
『初蝉の声ひきたらぬ夕日哉』
これは、早朝に蝉がやっと羽化したが、まだ小さくて夕方になっても精一杯に声を張っても続かない鳴き様をこっけいにもまた面白いとも吟じている。また、
『花も月も見しらぬ蝉のかしましき』と吟じて、蝉が寝食を忘れ、周りの変化にも気づかずに、命を燃やすがごとくに鳴く様をうるさいけれどもあわれに感じたものだな。
 ふーん。そういうものかな。わが輩も、ジジちゃんやハッピーちゃんの匂いを嗅ぐと、周りが目に入らなくなり、至福の時が過ごせるんだけれども、人間どもは集中して耽溺はできないものらしい。どこか醒めて自分を見ている分身がいるのだろうな。

「やがて死ぬけしきはみえず蝉の声」 芭蕉