男あるじと女あるじは、この日曜日、瀬戸物祭りに出かけていった。9月の第2土曜日と日曜日が恒例となっているそうだ。二人がいないと、家の中はひっそりして静かになる。もともと、娘あるじは日曜日でも家にいたことはない。趣味にしているテニスの練習か試合に出かけていくためらしい。わが輩は、今日こそ誰にも邪魔されずに午睡を楽しもうと縁の下のわが庵にもぐり込んだ。日中は気温は高くなるが、それでも縁の下の土は湿り気があり、心地よい風も吹き抜けるので、直に寝入ってしまった。
  陽も陰り、西に傾く頃に、男あるじと女あるじは上機嫌でご帰還遊ばした。わが輩は、それを気配で察したが、気持ちの良い眠りを続けたかったので、知らん顔を決め込んでいたら、女あるじが、
「クウちゃん、ごめんね。寂しかったでしょう。すぐに散歩にゆくからね」とおせっかいを焼き始めた。わが輩は、ありがた迷惑に感じたが、そこは当てがい扶持の身、縁の下から這い出てしっぽを振った。そこへ、男あるじも出てきて、
「今年は、陶祖八百年だそうだ。つまり、この地に瀬戸物の焼き窯がつくられてから八百年も経過したというぞ。八百年前と言えば、1212年ということになるな。時は鎌倉時代で、執権は3代 北条泰時の頃になる。北条時政、義時、そして泰時と続き、後鳥羽上皇による承久の乱が起きたものの、北条政権がもっとも安定期に入った時代である。現在、瀬戸で陶祖神として祀られているのは、陶工である加藤四郎左衛門景正という人だそうだ」と祭りで渡された資料を見ながら話し出した。わが輩は、茶碗には興味がないのでそっぽを向いていたが、そんなことには構わずに、話を続けた。
「言い伝えによると、曹洞宗の開祖である道元禅師とともに貞応2年(1223)に中国・宋にわたり、中国の製陶技術を習得し、瀬戸物に格好な陶土をいまの瀬戸の祖母懐で見つけ、窯を開いて、中国の焼き物の技術を伝えたのだそうだ。偉いものだな。それ以後、ここで焼かれた皿や茶碗が全国に売られるようになった。皿や茶碗のことを瀬戸物というが、これは瀬戸でつくられた陶器が全国に広まり、いわば代名詞のように呼ばれるようになったからだ。もっとも、西の焼き物の拠点である有田にいくと、瀬戸物ではなく有田物とよばれるそうだ。まあ、互いに張り合っているわけだが、瀬戸物は陶器、有田焼は磁器という違いがある。有田焼は豊臣秀吉の朝鮮出兵と関係があり、朝鮮から連れてこられた朝鮮の陶工がその礎を築いた。朝鮮出兵は1610年頃なので、瀬戸物の方が400年ほど前と言うことになるな」とうんちくを傾けた。  わが輩は、そんなに古くからこの地で営々と陶器が焼かれてきたのかと驚嘆したが、されど、わが輩のお皿は陶器でなく磁器でもなく、ステンレス器なのでいっこうに興味が涌かない。わが輩から見れば、土塊からつくられた物より鉄や銅、銀さらに金でつくられた物の方が値打ちが高いわけだ。人間が、どうして土塊からつくられた物を好むのか、まか不思議としかいいようがない。
  これを聞いていた女あるじは、
「クウちゃん、瀬戸物祭りで買ってきたこのお茶碗をみてごらん。形、模様、色合いなど申し分ないわ。これは、瀬戸に古くからある織部焼きなのよ。この焼き物の特徴は、この濃緑色にあるわ。これで飲む緑茶はきっとおいしいわ」と話に割って入った。
 わが輩には色覚はないので、織部焼、志野焼、赤津焼の違いがわからない。もし、色を見ることができたらと思わないでもないな。パラリンピックで金メダルに輝いた水泳の全盲の女子選手が、金色というのはもっとも美しい色なんでしょうねとコメントしていたが、わが輩も織部焼の濃緑色はきっと美しい色なのだろうと想像して、その意を眼で女あるじに伝えた。

「秋天や 鵜の目鷹の目 瀬戸祭り」 敬鬼

徒然随想

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