ここ数日、男あるじの姿がみえないな、どうしたのかな、と思っていたら、赤く日焼けた顔をして男あるじがやってきた。わが輩は、その顔はどうしたのですかとそれとなく上目遣いで尋ねると、男あるじは、「うん、この日焼けか、これは雪焼けだな。スキーに行っていたのだが、春の晴天に恵まれて、いや恵まれすぎてこの通りだ。それにしても、またとないスキー日和だったぞ。山は晴れると風が強いものだが、今回はそよ風くらいがときたま吹くだけで、それもいくぶん汗ばんだ身体を冷やしてくれたので気持ちの良いものだった」とご満悦の態で話し始めた。
  わが輩は、男あるじの自慢話なぞ聞きたくもないので、さっそく縁の下にもぐり込んで耳をふさごうとしたら、とたんに首に強い力を感じた。男あるじがリードを引っ張って引き戻したからだ。わが輩は、憮然として吠えてやろうとしたが、そうすると男あるじは意地になってわが輩を押さえ込みに掛かるので、あっさりあきらめて地べたにへたり込んだ。男あるじは、
「大学時代の友人と志賀高原に行ってきたのだ。23日のスキー旅行としゃれ込んだわけだ。志賀高原は日本におけるスキーのメッカだ。1998年には冬季オリンピックも開催された。ここは、上信越国立公園なので、春夏秋冬、どの時期でも自然を満喫できる。標高も1000m以上の高原で、周りを取り囲む山々、横手山、笠岳、東館山、焼額山、寺小屋山は2000m以上の標高を持っている。とくに、横手山からの景観はすばらしいものだ。西北には白馬岳、白馬鑓ガ岳、五竜遠見岳、鹿島槍岳、常念岳、穂高、そして遠く乗鞍岳まで、手前には北信5岳といわれる斑尾山、妙高山、黒姫山、戸隠山、高妻山が間近に見える。東南には菅平、浅間山、八ヶ岳、そして富士山もちょっぴりと見えるし、東には、白根、榛名山が眼下に見えるのだぞ。まあ、新潟から長野、山梨、群馬の主要な峰峰が一望の下に見えるというわけだ。剛毅なものだろう」とひとり悦に入っている。
  わが輩は、山の名前何ぞにまったく興味がないので、うんともすんとも反応しなかったが、そんなことは意に介さずに、話を続けた。
「なんでも、志賀高原でスキーをした最初の人はドイツの貿易商キンメル夫妻だという。大正2年頃のことだという。1913年というからちょうど100年前になる。最初のゲレンデはジャイアントコースで1930年、次に1952年丸池スキー場、1957年熊ノ湯スキー場、1958年横手山スキー場とオープンしていった。高天原スキー場や一ノ瀬スキー場は1960年代に入ってから、そして焼額山スキー場が最後で1983年になってからだ。私がはじめて志賀高原の熊ノ湯でスキーをしたのは中学2年の頃だから、昭和32年、1957年だったな。ちょうど、熊ノ湯スキー場ができたばかりの時だ。まだ横手山スキー場はなかった。中学のクラスメート3人で、そのうちの一人の父親が努める信用金庫の寮に泊まってスキーをしたのだったが、あれはいま思い出しても楽しいひとときだった。たしか、越路吹雪のサントワマミーが流行っていて、ラジオから流れていたな。越路吹雪は長野県の飯山市の出身で、ここの高等学校を中退し、宝塚音楽学校に入学したようだ。『二人の恋は 終わったのね 許してさえ くれないあなた さようならと 顔も見ないで 去っていった 男の心 たのしい 夢のような あのころを 思い出せば サン・トワ・マミー 悲しくて 目の前が暗くなる サン・トワ・マミー』、まだ中学生にはわからない歌詞内容だったが、それでも越路吹雪の歌うメロディーは甘く切なくてなぜか心に残っている」と男あるじは神妙に話を終えた。

「気を透かし 雪山遠く 空無辺」敬鬼

徒然随想

-志賀高原でのスキー