徒然草の第八段には、こんな一説があるが知っているかと、男あるじは尋ねてきた。その一説とは、「世の人の心まどはすこと、色欲にはしかず。人の心はおろかなるものかな」というものだそうだ。わが輩は、きょとんとして男あるじを見上げながら、色欲とは何ぞねと眼で問うた。男あるじは、「色欲とは、異性に対する性的な欲望をいう。つまり、お前はオスだから、メスに対する性的な欲望をいう。人間では男性が女性、あるいは女性が男性に抱く性的な欲望をいう」と解説した。わが輩は、性欲は子孫を残し伝えていく至極まっとうな行いと理解しているので、それがどうして心を惑わすおろかなことなのか、全く理解できないでいると、男あるじは、
「生きとし生けるものの営みは、煎じ詰めると、個体保存と種の保存にゆきつくのは確かなことだ。種の保存は異性に対する性的欲求が性行動の源泉となっている」と話した。
  わが輩は、ますます混乱してきた。性的欲求は生物目的的に肯定されている。それでは、人間ではどうして心を惑わす愚かなるものとなるのだろうか。男あるじは、
 「性的欲求は、本来の目的である種の保存のために行使されるのであれば、問題はない。しかし、人間の世界では、種の保存という目的を超えて、異性を好きになり、異性を求めるようになったところに問題が生じてきた。キリスト教、仏教、イスラム教など多くの宗教では、性欲を宗教が定めた範囲に抑制するように教えている。これは、性的欲求が人間関係を傷つけないように、また社会的秩序を乱さないように配慮しているためと考えられる」と応えた。そして、「徒然草は、先の文言に引き続いて、異性に対する性欲はこんなふうに心を惑わすと述べている。『にほひなどはかりのものなるに、しばらく衣裳に薫物すと知りながら、えならぬにほひには、必ず心ときめきするものなり。久米の仙人の、物洗う女の脛の白きを見て通を失ひけむは、誠に手足はだへなどのきよらに肥あぶらづきたらむは、外の色ならねば、さもあらむかし』。これは14世紀前半に書かれたエッセイであるが、そのなかにさえ、このような記述があるのは愉快だな。人間は、自分の性的欲求をコントロールするのに昔から苦労してきたということだ。人間の中でも悟りを開いた仙人でさえ、女の白い足をみて神通力を失い、墜落してしまうのだからな」と笑い出した。
  わが輩も、えもいわれる香しいおしっこの匂いには身体がしびれてしまう体験をなんどもしてきたので、このことはよくわかるつもりだ。性的欲求は、相手が発する性的な刺激に対して反応するものなので、これはこれで当然のことだろう。そういえば男あるじも西東三鬼のこんな俳句を口ごもりながらつぶやいていたな。確か、『おそるべき君等の乳房の夏来る』だったな。男の心、そして熟年男性の心も惑わす乳房という刺激で埋もれていた性欲の火が点火されるのをおそるべきと表現したのだろう。わが輩は、それならばそれでよいではないかと思う。性は生なりだ。ことさら押さえ込むこともなかろうて。もっとも、この家のあるじは、万事に付けて節度がないので危ない火遊びとなるかもしれないが。それにしても、人間は、性的欲求にときめき、とらわれ、惑わされ、そして墜ちてしまうこともある存在なんだな。人間の場合、性の欲求は種の保存という目的から切り離され、それ自体を快楽として、はたまた文化として追求するようになったからだろうな。

「夏来たり 娘ら肌に 瞳開く」敬鬼

徒然随想

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