今年も残り1カ月を切り、寒い日も多くなってきた。わが輩も齢12年有余、残された生がどのくらいなのか知るよしもないが、まあ、人間に換算すると、70歳を越えていることになるから、あと数年だろう。この家の男あるじと、齢についてはちょぼちょぼだ。わが輩が住んでいる地域は、比較的温暖な冬が過ごせるのでありがたい。こんなことを自ら問いつ問われつしていると、そこへ、男あるじと女あるじが、珍しくお揃いでお出ましになった。女あるじは、いつもの癖でわが輩の頭や背中を撫でまわし、
「おりこうなクウちゃん、このあたりの犬の中では一番の器量よしだね」と誉めた。わが輩は、この時とばかりに、フィーンフィーンと猫のまねをして猫なで声で甘えてみせる。まあ、わが輩の処世術のひとつといえる。こうしておけば、待遇は一段と良くなるわけだ。
 男あるじといえば、苦虫をかみつぶしたような顔で、
「なんと、脳天気なのだ、今年も残りの日数がすくないというのに。人間にも、犬にも、それぞれ生きることのできる持ち時間というものがあるだろう。今年が終わるということは、来年が間近と言うことであり、そして再来年もまたすぐやってくるということだぞ。師走というのは、残された持ち時間をひしひしと感じさせる月なのだ」と、遠くを見るような目つきでつぶやいた。師走という語は、ある種の人間には、しんみりとした感情を起こさせるらしい。
 男あるじは、さらに
「俳句にもこんな句があるぞ。『死にかたを教へられたる師走かな 大串章』。師走は、生と死を一段と感じさせる月なのだ。大晦日は今年の終わり、オールラストであるが、日本でも、いや世界中で馬鹿騒ぎをするだろう。あれは、来る年を歓迎しているのではなく、今年が終わってしまうという寂しさを紛らわしているのだ。NHKの紅白歌合戦が戦後、62年も続いているのは、今年流行った曲や昔のなつかしのメロディを聴きながら、この寂しさを自分で消化し、来る年へと望みを繋ごうとする一人一人の心の営みに、見事にフィットしているからに他ならない。格闘技、プロレス、あるいはなでしこジャパンの録画映像では、ある年齢以上の人のひそかに行われるこのような心の営みには沿わないだろう」と続けた。
 わが輩も、このような考えには共感できるというものだ。ずっと前に、男あるじから『門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし』の戯れ唄の話を聞いたことがある。確か、一休禅師の作とか。男あるじも、これを聞きつけてしたり顔に
「一休禅師は、禅宗の坊さんであるが、権威や伝統を茶化す風狂の心の持ち主だったといわれている。伝えられる奇矯な振る舞いも多かったそうだ。なかでも秀逸なのは、正月に杖の頭にドクロをしつらえ、『ご用心、ご用心』と叫びながら練り歩いたという逸話がある。正月と言えば、謹賀新年の言葉にもあるように、謹んで賀を称するわけだから、この上なく目出度い時なのに、死者を表すドクロをかざして練り歩くなんて、縁起が悪いことこの上ない。それでも、人間には、いや人間に限らず生きとし生けるものにはいつ何時死が身近に潜んでいるかわからないのだから、正月でも、この無常を念頭から離してはならないことを教えているのだ」と神妙に話した。
 わが輩も、犬の寿命から推して、この世にいられるのは後数年だろうと思っている。大震災のあった今年も無事に生き延びたことを謝し、来る年も息災であることを念じて正月を慶賀したいものだ。わが輩はドクロを咥えて、吠えたりはしない。一休禅師の『世の中は起きて稼いで寝て食って 後は死ぬを待つばかりなり』に共感し、閑かに残された生を楽しみたい。

「師走の風 酸いも甘いも 匂いたり」 敬鬼

徒然随想

     師走に思う−