12月も中旬、いつもは11月の小春日和がもちこされ穏やかな陽光が吾が庵にも降り注ぐのに、今年は晴れても風が強く寒い日々が続いている。吾輩は仕方がないので縁の下に潜り込み、女あるじが敷いた毛布に身体を丸めて暖を取り、暖まってきたら白昼夢の世界へと遊ぶ。よくしたもので、風を避けられれば自分の体温で温くなるので困りはしない。時々、吾が庵の前の公園に幼児をつれて散歩に訪れた人がいるので、薄目をあけて見るともなく見やっていると、不思議に心も暖まってくる。子どもというものは、それだけで人でも犬でも心を和ます存在なようだ。 どのくらいの時間が経っただろうか、陽が陰りだしたなと感じたら、そこへ男あるじが手になにやら白い封筒のようなものを持って出てきた。
「まだ散歩ではないぞ、手紙を出すのでついでにお前も連れて行ってやろう」とのたもうた。
 吾輩も昼寝にも飽き、退屈し出したときなのでグッドタイミングだ。そこで、精一杯尻尾を振ってお愛想をした。そして、誰へのお手紙ですか、メールではなくお手紙なんて珍しいですなと眼で問うたら、
「うん、これはお悔やみの手紙なのだ。師走になると年賀状を家族の喪のために欠礼するというお知らせがいくつも届く。他界された人はみな私の知人のお身内の方なので悲しいことだ。そのなかでも、知人である本人が亡くなったという知らせが妻から届くと、びっくりするとともに悔恨の情が湧き上がる。ご病気で不調であることが伝わっていればご他界の知らせがあっても驚きは少ないが、まだまだ元気で仕事、あいまのテニスや散策を楽しんでいるはずと思っている人が亡くなったと知らされると、これは心穏やかではない。その人が生前中、格別にご厄介になったり、先輩や同僚として親しんだ人であればなおさらだ。」と話し出した。
 吾輩は、神妙に男あるじの話を聞いた。吾輩にも犬仲間というか犬のおつきあいというか、まあそれなりに知り合いができる。散歩でいつも出会うやつとか、いつも伏せをしていきなり飛びかるやつとか、まるで親の敵のように吠えるやつとか。でもそんなやつらでも、しばらく姿を見ないと心配になることがある。とくに、吾輩のように老犬だとなおさらだ。そういえば、朝の散歩でよく一緒になったボーダーコリーのばあさんも合わなくなったので、男あるじが消息を尋ねたら、この春になんでも数日で死んでしまったそうだ。口にバックを咥えて散歩していた。なぜか吾輩を見ると目を背けていたな。耳も遠くなり、眼も白内障だと飼い主のおばさんがいっていたからきっと老衰だったのだろう。
 男あるじは、こんな吾が想念いや妄念を察し、
「生あるものはいずれかは滅する。これはお前も私も同じだ。悔やまれるのは生あるときにどうしてもっと親しく交わらなかったかだ。たいてい、日々の些細な雑事に取り紛れて、その貴重な機会を逸してしまう。これは、親子の間でも同じことだ。親はまだまだ元気だから、この次にいいだろうと思っていると、突然の死で子は狼狽する。実は、わたしの父もそんなふうにして突然他界されてしまった。本人も自分に急に訪れた死に戸惑ったに違いないが、残されたものも大いに悔やまれてならぬ。でも、あとの祭りだ。死を生に戻すことはできないのだから。」と結んだ。
 吾輩は、男あるじの悔恨がなんとなく分かるような気がする。生あるものは、自分も含めていつまでも生が続くと楽観的に考える。これはこれで正しい。いつも死を思っていたのでは生きてはいけないからだ。ただ、死はいつも身近に潜んでいるので、心して、今しておくことは先延ばしにしないことが肝要なのだろう。

「師走入り喪中はがきの届く朝」 敬鬼

- 師走の一日-

徒然随想