昨晩は熱帯夜で、わが輩も眠りが浅かった。ようやく、うとうととしだしたところに、男あるじが、これも眠れなかったのだろうか、眼をこすりながらやってきた。ようやく朝寝を楽しもうとした時だったので、これ以上間が悪いことはない。しかも、また、お経のように、方丈記の一節を暗唱しだした。
「もし、夜、静かなれば、窓の月に故人をしのび、猿の声に袖をうるほす。草むらの蛍は、遠く槇の篝火にまがひ、暁の雨は、おのづから木の葉吹く嵐に似たり。山鳥のほろとなくを聞きても、父か母かと疑い、峰の鹿の近くなれたるにつけても、世に遠ざかるほどを知る。或いはまた、埋み火をかきおこして、老いの寝覚めの友とす。おそろしき山ならねば、ふくろふの声をあわれむにつけても、山中の景気、折りにつけて、つくる事なし。いはむや、深く思い、深く知らむ人のためには、これにしもあらず」と男あるじは口に出した。
  どうやら、鴨長明さんも眠れない夜があったようだ。山中の庵で暮らしているので、そんなときは、山から猿、鳥の声が聞こえ、また風が吹き、木の葉を散らす音も、夜のしじまに響くのであろう。そんなときには、亡くなった人、亡き父母のことなど思いやるのだろうか。わが庵は、住宅街にあるので猿の声は聞こえないし、ヒヨドリや椋鳥がおいるが夜には鳴かない。わずかに、隣家のテレビの音やネコの鳴き声がするばかりで閑静なものだ。わが輩は、眠れない夜でもものを思うことはない。ただ、じっと時の過ぎゆくままにまかせている。わが輩のこんな感慨を男あるじは見て、
「頭の中がからっぽだと、ものを思うことはないだろうな。ものを思うというのは、自然にふれて感傷的になる、あるいは故人をしのぶ、あるいは来し方をふりかえる、あるいは往時をしみじみと述懐するということだ。夜のとばりがおりると、五感に入る刺激が少なくなるので、その分、脳の活動が活発になり、心にさまざまなことが去来する。とりわけ、山中の庵で暮らせば、現代のようにテレビやネットを通しての余分な刺激や情報が入らないので、それだけ心の中によしなしごとが浮かんでは消え、浮かんでは消えるのだ。沢庵禅師の和歌にも『思わじと 思うも物を 思うなり 思わじとだに 思わじやきみ』がある。これは、思うまいとすればするほどそのことにとらわれてしまうので、思わうまいとさえ思わないことが大事なのだ、と詠ってる。とはいえ、思うまいというような境地、いや心の対処術を会得するのは容易なことではないな」と男あるじは問わず語りに語った。
  どうやら、最近の男あるじはいたって神妙である。これまでは、わが輩を馬鹿にした態度を隠さないのが常であるが、それさえも陰を潜めている。何事かあったのだろうか。もの思いにふけるような高尚な態度を男あるじに見たことがないわが輩は、なにごとぞと訝った。すると、男あるじは、
「ものを思うというのは、来し方を顧みて、これまで関わった人々を偲び、わが行く末を案ずるということにある。齢68歳余になれば、人の死に目に会うことも多くなるので、それなりに来し方を述懐しても不思議ではないな。もっとも来し方を偲んでも、行く末が見通せるものでもないのだ。100人おれば100通りの暮らしや人生、そして人生観がある。風のそよぎ、木漏れ日、草花、蝉の鳴き声などにふれてものを思うことは、生きることを深めてくれるわざではないだろうか」と結んだ。
  わが輩は、このつぶやきにはちゃちゃをいれずに神妙に拝聴するのみであったが、しかし人間はやっかいな生き物だな。ものごとにふれて、そのときにのみそれに素直に感動すればよいものを、それを心の中に留め、さらに深化させないとならないらしい。

「闇を通す 涼しさを待つ 天の川」 敬鬼

 

徒然随想

-もし、夜静かなれば