徒然随想

-スペイン紀行―セルバンテス

夕方、いっこうに散歩に出てこない男あるじを待ちかねていると、「ドン・キホーテ、ドン・キホーテ」とぶつぶつ言う声が聞こえてくる。焦れながら耳をそばだてると、どうやらスペイン旅行での体験を娘に話しているようだ。「セルバンテス」、「ラ・マンチャ」、「サンチョ・パンサ」、そして「ロシナンテ」とか聞き慣れないことばが交わされているようだ。そこで、わが輩は散歩を促すべく「フィーン、フィーン、フィーン」と三度もことばならぬ音信号を発した。娘がさっそく聞きつけて、

「まあ、クーちゃん、待ちきれないの。そうだよね、散歩は一日の最高の楽しみなのよね」という。
 男あるじは、
「まてまて、まだドン・キホーテの話が終わっておらん。なぜ風車に突進してあえなく吹き飛ばされたかを論じるところだから待っていなさい」と偉そうに言う。

わが輩は、こんなときはおとなしく待つのが、もっとも散歩への早道であることをすでに学習しているので、床にうずくまった。男あるじは、こちらも当惑したがしかしこんなときは逆らわないことを学んでいる娘を相手にしゃべり続ける。
「ドン・キホーテはセルバンテスによって1605年に発表された。日本で言えば、関ヶ原の戦いが1600年だから、家康が1603年に征夷大将軍になって世の中が安定してきた頃になる。セルバンテスは数奇な一生を送った。ヨーロッパ連合国とオスマン帝国が地中海の制海権をかけたレバントの海戦(1571年)にも参加し、右手に負傷したというし、多額の負債が返せずセビリアの監獄に投獄された。でも、この投獄中にドン・キホーテの着想を得たと、その序文に記述している」
 ふーん、そうなの。わが輩にはどうでもいいことだ。でも、せっかく話しているので、上目遣いにそれでと先を促すと、
「ほぼ同時代に生きたシェークスピアもドン・キホーテを読んでいたと言われるから、この小説の影響は世界的だったと考えられるね。」
ふーん、わが輩はそれを読んだこともないが、いったいどんな話なのかなと男あるじを見やると、それを察知したのか、ちょっと顔をそむけた。どうやら、男あるじも読んではいないらしい。わが輩も、騎士道小説を読み過ぎ、われこそ遍歴の騎士であると妄想、太っちょのサンチョ・パンサを従者にみたて、痩せ馬ロシナンテに騎乗し、諸国を遍歴して数々の失敗をやらかす物語としか知らない。
「この小説は、実は、当時の騎士道という貴婦人、王様、そして神に忠実なしもべとしての生き方、そして騎士道精神という私欲を捨てた道徳観を、滑稽な失敗を繰り返す主人公を通して批判しているのだぞ。けっしてお笑い本のたぐいではない」と男あるじは、どこやらに書いてあることで締めくくった。
「やれやれ、人間はきゅうくつな生き方を強いられる存在だな。騎士道とか武士道とか、あるいは武士は食わねど高楊枝とか、人間の品格とか・・・人間は自ら考え出した生き方に縛られてにっちもさっちもいかなくなってしまう存在らしい。自縄自縛とはこのことだな。それに較べれば、わが輩は好きなときに起き、好きなときに食べ、好きなときに散歩し、そして丸まって寝ていればいい。自ら自分を縛る掟を課そうなんてこれぽっちも思わない。もっとも、このような境遇を獲得するためには、我があるじたちにちょっと媚びを売り、まあかわいいと言わしめ、あなたは家族だと思わせねるハイテクを駆使せねばならないが」とつぶやいた。