これもまた徒然草に書かれていることだがな、と男あるじは夕方、西日が暑いわが輩の庵としている縁の下にやってきた。そして、徒然草の一〇八段を読み上げた。やれやれ、またも徒然草か、わが輩にはやれやれ草にしか聞こえない。
「寸陰を惜しむ人なし。これよく知れるか、おろかなるか。おろかにして怠る人のためにいはば、一銭軽しといえども、これを重ぬれば、貧しき人を富める人となす。されば、商人の一銭ををしむ心切なり。刹那覚えずいへども、これを運びてやまざれば、命終ふる期忽にいたる」と声を上げて朗読した。
  光陰矢のごとしということのようだ。わが輩には時間はゆったりとたゆとうように流れている。わが輩は、その流れに浮かぶ木の葉のように、抗いも、また力んで漕ぎもしないので、流れが速かろうが遅かろうがいっこうに苦にならない。しかし、人間はなぜに寸陰を惜しむのだろうか、なぜに寸陰を楽しめないのだろうかと目で男あるじに尋ねると、男あるじは、自分で答える代わりに、徒然草のその節の続きを、
「されば道人は、遠く月日を惜しむべからず、ただ今の一念、空しく過ぐることををしむべし。もし人来たりて、わが命、あすは必ず失はるべしと告げしらせたらむに、けふの暮るるあひだ、何事をか頼み、何事をかいとなまむ。我等が生けるけふの日、なんぞその時節にことならむ」とはじめは朗々と、しまいは消え入りそうに読み上げた。
  わが輩は、命が明日までしかないといった状況を想定することはこれまでなかった。明日は明後日に、あさってはさらにその次の日に永遠と続いていると思っているので、いまこの時を大事にしていれば、それで足りていた。でも、明日はこの心地よい午睡がもはやできないのだといわれたら、ハイそうですかと素直には受け入れられないな。
  男あるじは、これは大きな命題だとのたもうた。明日は命が無いという状況は、かつては戦争の時、いまは病気の時がそれに当たる。死刑囚が明日執行と知らされるのも、命が明日には無いという状況という意味では同じことだ。まあ、人生の終わり方に関わる問題でもあるが、徒然草では、こういうふうに答えを出している。
「一日のうちに、飲食、便利、睡眠、言語、行歩、やむ事をえずして多くの時を失ふ。そのあまりの暇幾ばくならぬうちに、無益のことをなし、無益のことをいひ、無益のことを思惟して時を移すのみならず、日を消し、月を亙りて一生を送る、最もおろかなり」
  わが輩は、毎日、食べ、昼寝して、散歩して、また食べ、その合間によしなし事をつらつら思い、そして夜寝で、時を過ごしている。兼好法師にいわせると、最も愚かなりの暮らし方と言うことになるので、憮然とした。なにおか言わんやだ。わが輩は、この暮らし方が気に入って満足していて、それなりに充実している。もちろん、男あるじのわが輩に対するからかいやいじめ、散歩での自由な探索の妨げなど、腹が立つことも多い。これも当てがい扶持の身の上と甘受すれは、毎日、毎日が心地よく過ごせるのだ。それを愚かなりとは何たる言いぐさとおもいっきり吠えてやった。 
 男あるじも、我が思いを察したとみえ、
「まあ、おまえの気持ちはよくわかる。人間も毎日の暮らしは、いわば自分の肉体いや命の再生産に多くの時間を割かなければならない。朝食、昼食、夕食だ。兼好法師もこれはやむをえない事だと認めている。愚かだと言っているのは、無駄なことを行い、考え、言うことだという。修せむ人は修せよとのみしるして、何が無駄なことなのかは述べていない。ここで修せよとは仏道修行を言うので、普通の人には当てはまらない。日常の茶飯事のなかでも、常に、時が有限であることを自覚して、一瞬を有意味に生きることが大事で、一瞬を空しく過ごすことを惜しむべし。」と結んだ。
  わが輩は、わが内では一時一瞬を無駄にはしていないつもりだ。でも外からみれば怠惰に過ごしているようにみえるだろう。要は、自分が一時一瞬を納得して過ごしているかどうかではないのだろうかと思惟した。もっとも、この思惟も無益なことかも知れない。

「こおろぎの 鳴き音とだえて 闇深し」 敬鬼

徒然随想

-寸陰を惜しむ